関電高浜、差し止め判決の背景は「政治の無責任」

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GEPR編集部

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関電高浜原子力発電所、(後方が3、4号機)(Wikipediaより)

関西電力の高浜原子力発電所3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止めを滋賀県の住民29人が求めた仮処分申請で、大津地裁(山本善彦裁判長)は3月9日に運転差し止めを命じる決定をした。関電は10日午前に3号機の原子炉を停止させた。稼働中の原発が司法判断によって停止するのは初めてだ。何が裁判で問題になったのか。

 初の稼働中の原発停止

同原発の3号機は、原子力規制委員会の新規制基準の適合性審査に合格し、最終検査のために今年1月29日に再稼動、送電を行っていた。また同4号機は2月26日に再稼動したが、29日に変圧器周りのトラブルで停止していた。この裁判の原告は隣接した隣県の住民だ。立地県以外の申し立てが審理されたのも珍しい。

福井地裁では14年5月に、行政訴訟として大飯原発3、4号機の差し止め判決が出た。その判決は名古屋高裁で控訴審中だ。また福井地裁では高浜原発3、4号機について規制委が基準適合性を認めたことに対する運転差し止めの仮処分の請求訴訟が行われた。15年4月に差し止めの仮処分決定が出たが、同年12月にその決定の取り消しの判断が同地裁の異議審査で決まった。大飯、高浜の差し止め判決は同一の樋口英明裁判長の下で出た特異な例と思われたが、再び原発に厳しい判断が下されている。

関電は9日「極めて遺憾で到底承服できない。速やかに不服申し立ての手続きをする」とのコメントを出した。今後は関電の経営に悪影響が加わる。今年5月に予定していた引き上げ後の電力料金値下げの見送りを表明した。

また再稼動を認めた地元の福井県高浜町の野瀬豊町長は「司法に私たちが翻弄される」と不満を述べた。判決の社会的影響はかなり大きいが、その配慮は判決文からはうかがえない。

 リスクゼロ求める裁判所

仮処分決定によれば大津地裁は争点を7つ抽出した。「立証責任の所在」、「過酷事故対策」、「耐震性能」、「津波に対する安全性」、「テロ対策」、「避難計画」、「保全(この場合は、原発の差し止めによる安全性の確保という意味)の必要性」についてだ。

以下の論理展開を行っている。

1・危険性がないとの挙証責任は関電にある。

2・いずれの論点でも、関電の説明では、危険がないと明確に判断できない。「危惧すべき点や疑問が残るのに、関電は安全性の説明を尽くしていない」と総括した。

3・新規制基準が正しいかは分からないが「公共の安寧の基礎と考えるのは、ためらわざるをえない」との感覚的表現を使っている。

4・地震については、関電が設定し、規制委が認めた基準地震動700ガルは妥当か不明としている。

5・福島第一原発事故の原因究明はまだ行われていないことが、判断の理由の一つ。

6・事故が起こる可能性があるために、原発は運転してはならない。

大津地裁の判断は不思議で、稚拙な論理展開であろう。原子力発電の危険性を、科学的、確率論的に判断することはせず、「説明は尽くしていない」「判断できない」と、感覚的に指摘する。また判断根拠も原子力関連の諸法規では、原子力規制委員会に判断が委ねられている。ところが、この判決ではその法律の趣旨の検証もしていない。

福島事故については、報告書は政府など7組織が編集し、津波による全電源喪失が理由と分かっている。そして判断の根拠法も示していない。そして原発を否定する議論の中で多用される「リスクゼロ」を、事業者に求めているのだ。

かつて中部電力の浜岡原発(静岡県)の運転指し止め訴訟で、それを退けた静岡地裁は2007年10月の判決の「原子炉施設に求められる安全性」の項で次のように述べている。

「「原子炉施設の安全性」とは、起こりうる最悪事態に対しても周辺の住民等に放射線被害を与えないなど、原子炉施設の事故等による災害発生の危険性を社会通念上無視しうる程度に小さなものに保つことを意味し、およそ抽象的に想定可能なあらゆる事態に対し安全であることまで要求するものではない」

これは震災前とはいえ、妥当な判断である。つまり「ゼロリスク」を裁判所はこれまで求めてこなかったのだ。福井地裁の判断は、根拠も示されず、裁判所の権限の逸脱であろう。

 無責任体制の招く「司法リスク」

今回の判決には、原子力をめぐる社会環境の変化が反映している。福島事故でゼロリスクが達成されているとした安全神話が崩壊した。その結果、政府や行政への不信が強まり、これまであいまいだった「どこまで安全か」の基準が壊れ、そして誰も新しくそれを設定しようとしない。政府や行政は責任から逃げる。

安倍晋三首相、そして与党政治家は「世界最高水準の厳しい規制とされる規制基準に適合していると規制委が判断した原子力発電所は再稼動させる」と繰り返す。これは責任を規制委に転嫁した発言だ。

一方で原子力規制委員会の田中俊一委員長は「私たちは規制基準の適合性だけ審査する」「規制委に再稼動を判断する権限はない」「私は絶対安全とは言わない。原子力に絶対安全はない」と述べる。これは法律的に正しいし、科学者としても当然の発言だ。しかし政治の無責任と合わさって、田中氏の態度は責任の所在を不明確にしている。

関電は「規制基準に適合させた」という弁論を展開した。この新規制基準は、関電の作ったものではないから論証が明確に行えない。そもそも原子力規制委員会の現在の安全規制は、審査官の裁量で左右される不透明性が指摘されている。電力会社はその意図を説明しつくすことはできないだろう。

裁判で反原発を唱える弁護団は意図的なのか、政治、行政、電力会社のちぐはぐな対応の部分を突いてきたようだ。誰も積極的に「安全である」と断言しない構造の中で、「リスクはゼロではないから、原発は使ってはいけない」という論法を展開。それに裁判所が乗ってしまった格好だ。

国民的な合意ができない以上、安全性についてリスクの範囲をどこかで線引きし、それにしなければならない。しかし逃げ腰の政府がそうした線引きをする可能性は少ない。原子力の安全性は当然追求されなければならない。ところがその範囲を無限大にすると、無限の対策をするか、原子力を使わないという選択が導かれてしまう。原子力を使うメリット、使わない事による負担増という事実は忘れられてしまう

福島原発事故の衝撃は、まだ社会から完全に消えていない。「絶対安全」を多くの人々が求め、それを反原発の立場の人たちが利用する。原子力発電の安全の確保は当然だが、それが常識を越えてしまうほど過剰な「リスクゼロ」を社会で求める人が増えている。そして電力会社の経営、国民の電力料金の負担などの重要な問題が顧みられない。

今後も原子力をめぐるおかしな判決が続く可能性がある。電力事業者は「司法リスク」を覚悟した方がよいようだ。そして原子力政策の混乱は、原発の停止による国民負担を増やし、リスク回避に見合ったメリットを国民の誰もが受け取れないだろう。訴訟費用を負担した29人の原告が満足感を得て、そして集団訴訟で金銭的利益を得る弁護士たちが喜ぶだけだ。そして2200万人の関西地区の人々が、値下げを享受できなくなった。

こうした状況を止めるのは、政治の決断しかない。政治的に難しいことは理解するが、明確な方針を指し示してほしい。

民主党の野田佳彦首相は14年4月に大飯原発を動かすときに「責任は私と政府にある」と明言した。しかし安倍晋三首相からは、こうした言葉が出てこない。

(石井孝明、アゴラ研究所フェロー、ジャーナリスト)