『朝日新聞はイノベーションを理解していないようだ』で技術革新とイノベーションの相違について指摘したが、Suicaを具体例にもう少し説明しよう。
Suicaの成り立ちをおさらい
SuicaはJR東日本が2001年に導入したIC型乗車カードである。それまでオレンジカードという磁気型が利用されてきたが、偽造が横行したこともあり、IC型に置き換えられた。
磁気型のように自動改札機内で詰まることもなく、タッチするだけで入出場できる、料金が違う子供も利用できる、使用履歴を取りだせる、およその残高がピピッ音の違いで分かるなど、利用者に多くのメリットがあった。JR東日本にとってのメリットは、一枚一枚が、どの駅からどの駅まで何月何日何時何分に利用されたかが、すべて把握できることであった。「24時間365日の交通量調査」の結果は、ダイヤの改正や上野東京ラインのような路線開発に活かされた。ここまでは、技術革新の話である。
駅構内のキオスクでSuicaが利用できるようになったのは2003年である。このときから、乗車カードから電子マネーへと、Suicaは姿を変えた。少額決済のために小銭を取りだす必要がないというのが利用者のメリットだが、JR東日本は、乗降の情報に紐付けされる形で物品購入情報が得られるようになった。定期券や記名式なら、性別や年齢とも紐付けされ、情報はさらに精緻になった。そうこうしている間に、他社線・バスとの相互利用が拡大され、公共交通機関を利用する際に利用者は必ずSuicaを持ち歩くようになった。物品購入情報を店舗開発に活用した結果、駅ナカ・駅ビルはその駅の利用者層にますます適応するようになっていった。
公共交通機関の利用や少額の物品購入のすべてで、われわれはSuicaを利用するようになり、JR東日本は流通業へと変貌し、他方で駅前商店街は疲弊していった。こうして、Suicaは経済社会に大きな影響を及ぼしていった。
ICテレカは“技術革新”、Suicaは“イノベーション”
こちらがイノベーションである。朝日新聞が誤解したように、技術革新すなわちイノベーションであるとすれば、テレホンカードをICテレホンカードに置き換えたのもイノベーションだ。しかし、ICテレホンカードは全く普及せず、経済社会に影響を与えず、静かに消え去っている。このように、技術革新とイノベーションは異なるものだ。
テレホンカードの発売当初、紙幣類似証券取締法に違反するのではないかが問題になった。通貨の発行は国家が独占する機能であって、テレホンカードはそれを犯しているのではないかという指摘である。電子マネーとして利用されるようになって、「どこでも、誰でも、何にでも」使える紙幣類似性が高まっている。だからこそ、硬貨の発行枚数も減少しているのだ。幸いにも、技術に進歩に合わせて、イノベーションを止めない方向に制度が改革されていったので今がある。
理解不足のマスコミはイノベーションの壁
その駅の利用者の性別や年齢、通勤か買い物かといった駅利用の理由などが精緻に分かることは、駅前商店街の再生に有益である。ところが、JR東日本がSuicaの情報を匿名化して販売しようとした際に、個人情報保護法に違反するのではないかという批判が出た。「スマホやカードの行動履歴 ビッグデータ 不安も蓄積」という東京新聞の記事(2013年7月31日付け)がその典型であった。しかし、記事にもあるように、JR東日本に販売対象からの除外を申し出た利用者は6千人(0.01%程度)であって、大半の利用者は気にも留めなかった。その後、個人情報保護法は改正され、匿名化されれば保護の対象ではないことが明確になった。
法律だけがイノベーションの壁ではない。東京新聞のようなマスメディアも壁になることがある。法律・慣行・思い込みなど、広い意味での制度の壁を打ち破っていかなければ、イノベーションは実現しない。今度のICPFシンポジウムでは、広い意味での制度の壁について議論する。
それにしても、東京新聞の記事には不思議な一文があった。
「自分がどう動いたかという記録が使われるなんて、ちょっと気持ち悪いですよね…」東京・JR新橋駅前。Suicaを手に改札口を出てきた東京都の会社員女性(37)は、困惑した表情を見せた。
個人情報の保護を訴える記事で、なぜ、新橋駅利用・東京都在住・会社員・女性・37歳と書いたのか。JR東日本には許されないが、東京新聞は構わないという姿勢にはおごりを感じる。