それでもアメリカは原爆投下を謝罪できない

■平和記念公園訪問に敬意を表する

広島で開催中のG7外相会合で来日したケリー米国務長官が、同市内の平和記念公園を訪れた。芳名帳に「この資料館は、われわれに核兵器の脅威を終わらせる責務だけでなく、戦争そのものを避けるため全力を注ぐ義務があることをあからさまに、厳しく、切実に思い出させる」と記入したという。

実際には「こんなものを落とされてはたまらない」と、核廃棄の意志が遠のいたかもしれない。本心など誰にも分からないわけだが、それでも現時点で広島を訪れ、ここまでの意見を表明したことには素直に敬意を表したい。

一方で、ケリー国務長官に同行している米高官が「国務長官の広島訪問は謝罪のためかと聞かれれば、答えは『ノー』だ」と答えたことで、日本国内から「謝罪せよ」との反応も出ている。

原爆投下については当時の米国内でも反対論があったし、投下の目的も日本との戦争を終わらせるためではなく、ソ連に対する見せしめの側面が大きかったことなどは、多くの人から指摘されていることだ。東京裁判でも批判が出た。

だがそれでもおいそれと謝れるものではない。様々な問題や反対はあっても、当時のアメリカの指導部は原爆投下を選んだ。命令を受けた兵士は、それが祖国の勝利につながると考えて任務にあたったであろう。

しかも米国は第二次世界大戦の戦勝国だ。その土台の上に今のアメリカは成り立っている。それを簡単に後の政府の人間が、国を代表して「過ちでした、すみませんでした」と謝罪できるものではないだろう。

被害者の七十年も想像を絶するが、加害者側も葛藤が全くなかったわけではあるまい。要人の安易な謝罪はそのような静かな積み重ね、自省や被害者に対する慰霊の念や日米の人心のありようをぶち壊しにしかねない。謝罪の意を明確にすることで米国世論から「なぜ謝るんだ」といった反発論が出れば、対日批判の流れに火がつく可能性もある。

日韓間は「日本からの安易な謝罪」で失敗した。しかも慰安婦問題は「強制連行のウソ」という論点があるが、原爆投下の歴史的事実に争点はない。であるからこそ、なおさら、謝罪に対する抵抗が米世論の中に存在するだろう。

一般論として心情的に「原爆投下は悪、悲惨」と思うことと、政治的な意味を伴う、一国の幹部による謝罪は明確に分けなければならない。

■「二度と落させない」ために

原爆投下について米国を擁護するつもりは一切ない。「一度頭を下げるだけでいいのに、なぜそれすらできないんだ」というのが日本的心情かもしれないが、これはおそらく国際社会では通用しない。謝罪には明確な理由と責任が伴う。「謝罪」が日本では責任をぼやかした形でも成立して、恩讐にフタをして先へ進むための禊であっても、アメリカではむしろパンドラの箱を開けてしまう行為になりかねない。これも日韓間で経験したことではなかったか。

日本人として原爆投下を許さない思いは持ち続ける。被害を我がことのように思う気持ちは美しくもある。だが、被害であれ加害であれ、自分自身ではない他者の経験を「過度に憑依」させてはいけない。解決や相互理解、和解の道からは遠のいてしまうからだ。

世代が下っていけば、原爆にまつわる歴史をより客観的に精査できるようになる。「なぜ原爆が投下されるに至ったのか」を考え、「核保有国に二度と日本へ核を落させないためにどうするか」を考えなければならない。

そして世界に二度と核の惨劇が再現されないために、日本に何ができるのかを考えるべきだろう。そうでなければ、「謝罪できない」米国要人以前に、そのアメリカの核の傘の下で安穏としている我々こそ被爆者に顔向けできない。