尾木ママ拙速決めつけ評論の大罪

2016年06月05日 11:00

北海道不明児発見で、尾木ママへの批判が燃え上がっているが、これは、テレビなどでありがちな拙速で一方的な時事評論の落とし穴であり、猛省を促すものだ。

「しつけのお仕置きで7歳を山中に放置するでしょうか!? 」

「北海道の放置親に同情する方々に問いたい」

「(両親は)警察にも間違いなく逮捕されることでしょうね」

「(自衛隊の捜索でも見つからないなんて)はっきりいってあり得ない」

「置き去りそのものが真実なのか失礼ながら疑いたくなってしまいます

と尾木ママはブログで言いたい放題だったようだ。

私はこの人の手法にはかねてから疑問を持ってきた。この人は、まず、誰が悪者か決めつけ、一方的に責め、その人や組織の肩を少しでも持つ人までも社会が排撃するように仕向けて正義の味方として喝采を浴びてきた。テレビの世界ではそういうのが受けるのである。

しかし、家庭でのいじめでも教育現場で起きる事件でも、誰かが一方的に悪いということは珍しい。最終的に不幸な目に遭った人にも、なにも落ち度がなかったとは限らない。相手や周囲の他の人に落ち度があったとしても、暴力やいじめが許されないというのは当然だが、それと、その人だけが悪いかどうかは別だし。いじめ糾弾がリンチ同様のいじめになってしまっていることも多々ある。

また、事件の直後は、公平で中立的な立場で検証したり、証言を得ることは難しいことも多い。私はかねてから、こうした案件に限らず、日本社会にはびこる拙速主義を批判している。拙速であることは、間違いなく質を著しく低下させるからだ。

たとえば、いま誰かが死ぬとか、取り返しのつかない傷を残すことを防ぐためなら拙速主義もおおいにけっこうだ。 

しかし、原因究明とか再発防止策は、あわてても意味はないし、それどころか間違いを起こしたり不公正になる。むしろ、少し時間をおいて冷静にみんなが対処できるときになってからの方が良いと思う。これは、もちろん、教育や子育てに関してだけでなく、企業の不正でも政治問題でもそうだ。

企業や組織にとっては、被害を少なくするために迅速対応をするほうがリンチを避けるためによいのは事実だが、それは、世論が誤った圧力をかけるのを避けるための損切りに過ぎないのであって、本来はよいことではないし、組織の都合で個人が不当な汚名を背負うjことも多い。 

今回、尾木ママに限らないが、両親について突っ込みすぎる疑念を表明することを急ぐ理由は何もなかったのである。 

これを機に日本社会全体にはびこる拙速主義を反省するべき時だ。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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