選挙をやめ、クジ引きで決めれば?

2016年08月02日 11:30

東京都知事選が終わった。大方の予想通り、小池百合子氏が新知事に選出された。都民の期待に応え、新生東京の実現のために頑張って頂きたい。都知事選が終わったばかりで少々恐縮だが、「選挙は民主的ではない」という命題を掲げ、民主主義の「選挙制」の問題点とその代案として一種の「クジ引き制」の導入を考えてみたい。

ベルギーの著作家、歴史家のダビット・ファン・レイボロック(David Van Reybrouck)氏(44)は独週刊誌シュピーゲル最新号とのインタビューの中で、民主主義国の「選挙制」の代わりに「クジ引き制」(独語 Losverfahren、英語 Sortition)の実施を提案している。その背景には、民主主義国で実施されている選挙が結果として民主的でないことが多く、国民の意見が正しく反映されていない、という認識があるからだ。同氏の場合、ベルギーで選挙後、541日間、新政権が誕生できなかった2010~11年の国家危機が大きな影響を与えたのかもしれない。

「選挙に反対して」(Against elctions)の著書がある同氏は、英ガーディアン紙(6月29日)で「なぜ選挙は民主主義にとって良くないか」というタイトルで寄稿している。そこで民主主義疲労症候群(democratic fatigue Syndrome)は民主主義が問題ではなく、投票が問題だと主張している。1948年の「国連人権宣言」の中にも明記されている選挙の重要性について、異議を呈しているわけだ。本人も認めているが、少々挑発的なテーマだ。“選挙根本主義”(Electoral fundamentalism)への助言と受けとればいいだろう。

クジ引き制は「偶然原則」に基づいて物事を決定するやり方で、従来のやり方で公平な選択ができない場合にその代わりに実施される方法だ。紀元前624年には古代ギリシャではその公職のポストはクジ引き制で決定されていたという記録が残っている。ローマ・カトリック教会の総本山バチカンでも次期ローマ法王をクジ引きで決定した時代があった。すなわち、クジ引き制は選挙制より歴史が長いわけだ。選挙制は200年余りの短い歴史に過ぎない。

民主主義は多数決原理に基づいて運営される。その手段として選挙があるが、その結果が国民の多数意思を正しく反映していないケースが少なくない。一部の指導エリート層がその資金を駆使し、社会の世論を操作する。各分野でポピュリストが増えている。彼らは国が何を必要としているかではなく、国民が何を欲しがっているかをキャッチし、実行可能かどうかには関心がなく、選挙戦でそれを訴える。選挙で勝利できればいいからだ。最近では、英国の欧州連合(EU)離脱を問う国民投票の結果と、その後の国民の不満を想起すればいいだろう。

ただし、ファン・レイボロック氏が提案する「クジ引き」制は、国民から一定の数をアトランダムに選び、彼らに問題を考えさせ、必要ならば専門家にアドバイスを受ける機会も与え、最終的に問題の是非を問うという内容だ。国民の代表を選ぶ段階で偶然の原則を重視するが、決定は採決で決める。同氏によれば、国民の代表が時間と資金を受け、問題について検討し、その是非を決めるから、より良い選択が可能だという。

以下は、選挙の代案としてクジ引き制を支持する当方の考えだ。

当方はクジ引き制を更に一歩前進させ、偶然の原理をもっと活用する。一定のクリテリアをクリアした候補者が並ぶ。唯一、必要なことはくじ引きが公平に行われるように監視するだけだ。クジ引きシーンを公開し、テレビでライブ中継すれば、不正が働く余地はなくなる。

ドイツ語で「人は考え、神が決める」(Der Mensch denkt, Gott lenkt)ということわざがあるが、決定を人知が働く選挙制ではなく、人知が関与できないクジ引きの世界に委ねる。選挙違反も投票操作も生じない。言えるとすれば、“運があった”“運がなかった”と呟くだけだ。

「選挙制」から「クジ引き制」への移行は、大げさに表現すれば、知性主義、人知主義から神秘主義への回帰だ。フランス革命後の啓蒙主義、人道主義からの決別を意味する。知性至上主義者にとってプライドが許さないかもしれない。なぜならば、彼らは自身の知性で全てが決定され、それが最良の結果をもたらすと信じているからだ。決定を偶然に委ねることを潔しとしない。

厳密にいえば、民主主義という制度は腐敗していない。腐敗し、汚職する可能性があるのは常に人間であって、民主制を含む制度ではない。クジ引き制はその腐敗、汚職の可能性ある人間の関与を極力制限するやり方だ。クジ引き制は民主主義の否定を意味しない。ある意味で、クジ引き制は民主主義の最極限の選出方法ともいえるのではないか。政権、政党への信頼を失ってきた現代人にとって、クジ引き制の導入は失った政治への関心を覚醒する手段となるかもしれない。

いずれにしても、「クジ引き制」は我々の将来を運、不運に委ねることになる。人生で様々な体験を重ねていくと、人生には運、不運が機能していることを否定できなくなる。どうしたら,運を自身に引き込むか、といった類の本が本屋では多く並んでいるのを見れば、人々は運、不運のメカニズムに関心があることが分かる。

蛇足だが、「選挙制」に代わって「クジ引き制」が実施されるようになれば、どうしたら運を引き込むことができるかなど、新たな運・不運に関する高度な科学的研究がなされるだろう。これは一見、神秘主義、神本主義の回帰のように受け取られるかもしれないが、実際は人類が知性主義から脱皮し、人知を超えた世界で確実に機能している新しい世界のメカニズム解明への道を切り開くことになるのではないか。その意味で、選挙制の全廃ではなく、その欠陥を修正する手段としてクジ引き制の活用を支持する。

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