「寛容」とは何か?仏語圏のリベラル批判と蓮舫騒動 --- 神谷 匠蔵

アゴラ

蓮舫@ルモンド

蓮舫氏の民進党代表就任を報じるルモンド紙電子版


前回までは主に英語圏の表現の自由に関する状況を基に私見を述べてきたが、今回はフランス語圏の動きを報告したいと思う。また、そこでキーポイントとなる「政治的正しさ」に関連して現今の「蓮舫騒動」に関する愚見を述べさせていただきたい。

フランス人は「リベラル」にうんざりしはじめている

先日フランスのオピニオンサイトFigaroVoxにおいて、フランスのリベラル左派に対する痛烈な批判が掲載された。カナダのHECで教鞭を取る社会学者のMathieu Bock-Côté氏が、フランスにおいてChristiane Taubira氏に代表されるような「Taubira的な左派(la gauche taubirienne)」が道徳的「権威」の座を占有してしまっていることに対し遂に警鐘を鳴らしたのである。

元記事はフランス語なので本来なら全文翻訳すべきだが、原文が既に相当の分量なのでここでは要点のみを簡単に纏めるに留める。議論の大まかな流れは以下の通り。

  1. イデオロギー的左翼(la gauche idéologique)が西欧の大学、メディアおよび新聞を牛耳っている
  2. 近年「政治的正しさ」のタブー(les codes du politiquement correct)を破って左翼に反対する声が上がるようになってきたが、それは数量的に極めて少数に留まっている
  3. メディア上では、「左派的」でなければ敬意を払われない(la gauche maîtrise la respectabilité médiatique)
  4. 多文化主義者は政治家(具体的にはMacron氏など)が一般に政治的に正しくない言論人として知られている人々(Eric ZemmourやAlain Finkielkraut, Philippe de Villiersなど)と接触するだけで「道徳的欠陥」(faute morale)と看做し批判する
  5. 「左派」であることは一種の道徳的ステータスであり、かつ「左派」でありつづける為にはそのことを常に「証明」しつづけなければならない。Valls氏のように、Burkiniに反対するなどの「失敗」を一度でも犯せばたちまち非難の嵐に晒される。
  6. Taubira氏にとって、「右派政党」は「ゴミクズども(salauds)の政党」でしかない。
  7. だが、Taubira的左派が主張してきた「イスラム主義無害論」あるいは「大量の移民を受け入れることは大きな変化をもたらしはしない論」はもはや信じられないことは誰の目にも明らかだ。
  8. 現状ではフランスはいまだ「多文化主義」的イデオロギーに支配されているが、フランスはあくまで「多文化主義」に対して抵抗を続けるだろう。

原文ではより詳細に「言論弾圧」の状況が記述されているが、これだけでもフランスにおける「左派」の横暴は日本の「リベラル派」とは比較にならないほど苛烈であり、しかも現実にイデオロギー左翼の言説が「一般市民の虐殺テロ」という巨大な災厄の遠因になっているのだからその深刻さの程度も全く異っていることは明白だろう。

日本における「政治的正しさ」とは?

翻って日本での状況を振り返れば、日本では「左派」に対する批判は全く珍しくない。むしろ陳腐だとさえ言える。尤も、それはネットや雑誌などの大衆的言説空間においてであって、学問の世界で真剣に政治イデオロギーとしての右派を擁護しリベラル左派を糾弾することはやはりほとんど不可能だ。

これは、日本の学界において「欧米への留学」が持つ意義を考えれば当然のことだが、逆にいえば「学界」の価値観が「世間」とズレているとされ、「学問」の意義が一般に否定されるという事態にも繋がるという点で学界にとっては由々しきことだろう。

従ってこの矛盾を解消するために「学者」は「世間」の方を変えるために「教育的」言説をメディア上で発信するか、あるいは自分自身が「西欧」を批判し「世間」を擁護する側に回るかのどちらかを選ばなければならないが、近年では後者の選択をする人が微増している印象を受ける。

というのも前者の選択には従来型の右翼団体からの嫌がらせを受ける可能性がある上、誰もがインターネットを使う現在ではオンライン上で盛大に叩かれるというリスクがあるからだ。

また、「道徳的権威」という点では日本の場合一般に承認されているのはむしろ「右派」の方である。この「右派的道徳観」というのは具体的に言えば;

「陛下および皇室」を敬い、できれば「靖国神社」に参拝し、目上の人を敬い、自己を慎み、「分不相応」な要求をせず、自分のおかれた環境の中で与えられる「やるべきこと」を地道に淡々とこなし、「他人に迷惑をかけない」という意味で「自立」しているような人が道徳的に優れている、否、「普通の日本人」として認められる資格のある「真人間」である、というような価値観のことである。

この方が、西欧で一般的な、あらゆる「差別」に反対し、「異文化」を尊重し、過去の「帝国主義」を反省し、他人の「個人の権利」を尊重し、自分の権利のためにも戦うべきだという価値観よりも広く、そして強く支持されているのだとすれば、日本の言説空間(学界を除く)における「政治的正しさ」というのは右派的道徳観に従った言説の方だと言えるかもしれない。

実際、Bock-Côté氏が批判する「左派」のような役割は、日本の文脈に置き換えるならむしろ「右派」の方が果たしているように思われる。

そう考えれば、何故欧州では「極右」や「レイシスト」というレッテル貼りが巨大な破壊力を持つ一方で、日本では「極右」として非難される人物が存在せず、逆に「在日」や「反日」あるいは「売国奴」といったレッテルが躊躇なく多用されるのかを説明できる。

「寛容」とは何か?「蓮舫騒動」に際して

また、最近の蓮舫氏に対する集中豪雨のような批判も、日本的なcodes du politiquement correct が何たるかをはっきりと示している。勿論この騒動は単に「ハーフ」が日本でどういう扱いを受けるかという文化的問題だけでなく「二重国籍」という法的問題を含んでもいるが、例え法的には「問題ない」という判決が出たとしても文化的問題の方は残る以上、批判の声は緩まないだろう。とはいえ、上述のような欧州の「リベラル左派」の実態を知っている身としては、これを以て「日本は野蛮で遅れている」だとかいうような陳腐な批判をするつもりには全くなれない。

ただ、人間が自分の信じる道徳的価値観に反する対象をどんな風に扱うかというと、信じている思想や価値観に関わらず万国共通で凄惨なのだという点を指摘したい。

とすれば、名目ではなく実践的に「寛容」な人というのは、自分の属する社会で常識とされている価値観を共有しているにも関わらず、その中で「非道徳的価値観の持ち主」として全方位から嫌われている人を内部の価値観に沿う形で擁護できる人かもしれない。

つまり、現今の蓮舫騒動で例えるならば、「日本の野蛮さ」や「ネット右翼の下品さ」を侮蔑し、「二重国籍を問題にするなど遅れている」と指摘し、「こんな下らない連中の罵詈雑言に付き合う必要などない」という的の外れた擁護論を出す人ではなく、今の状況で敢えて蓮舫氏の日本に対する「愛国心」を信じ、彼女が日本以外の国に残されている「国籍」を除こうと「努力」していることを肯定的に評価出来る人こそが「寛容」なのだろう、ということだ。(無論、この問題があくまで文化的なものであり法的あるいは刑法解釈論の次元の話ではない、 という前提の下での話だが。)

断っておくが、私は別に蓮舫氏を擁護するつもりはない。政策や発言ではなく個人情報の範囲のことでここまで攻撃されているのを端から見ているとさすがに気の毒ではあるが、日本という国で政治家になり、しかもただでさえ国民に嫌われている最大野党の党首となるつもりだったのであれば、あらかじめそれなりの覚悟と対策をしておくべきだったのではないかと言うより他ない。

ただ、今のリベラル派のやり方では今回のように右派に攻撃されている人を決して救えないし、間違った方法による救援は誰も幸福にしないだろう。

神谷匠蔵

1992年生まれ。愛知県出身。慶應義塾大学法学部法律学科を中退し、英ダラム大学へ留学。ダラム大学では哲学を専攻。