椎名林檎氏は「右翼」なのか?

梶井 彩子
※リテラより

※画像:リテラより

■「右か左か」取締り部隊の方々

歌手の椎名林檎氏が自民党の会合で講演したことで、「ウヨ化(右翼化)が止まらない」と批判されている。

林檎氏と「右翼」を結びつける文脈は、林檎氏がNHKのサッカーW杯のテーマソング「NIPPON」を発表して以降、よく見られるようになり、日の丸を背負ったPVや、「純血思想を臭わせる」とされる歌詞などがその理由とされていた。

だが林檎氏本人はこれらの指摘を一蹴している。

〈いま大戦中でもないのに、人に「どっちなんだ!? 右なのか、左なのか」と問うこと自体、ナンセンスだとは思います〉

〈踏み絵ですよね。完全に。〉

〈(作品について右左を言うのは)すごくつまんないと思います〉

〈そういう読解力の方とは、縁がないって思っちゃう〉

一つ目のコメントは示唆的である。大戦中に「右か、左か」と思想を取り締まっていたのは憲兵や特高警察だが、いまや「リベラル」を自称する人たちが、音楽家の作品一つを取り上げて(この時点では自民党の会合には出ておらず、純粋に曲とPVがけしからんと言われていた)「奴は右寄りで危険だ、批判すべし」と言うのである。何とも滑稽な話だ。

これらの批判の後に林檎氏が世に放ったアルバムのタイトルは「日出処」。

旭日模様をバックにしたパツキンの林檎氏がジャケットを飾っている。この反骨精神を見よ。

■公憤にしたいだけでは

私自身は右寄りだと思うが、実は椎名林檎氏の十五年来のファンである。というと、「やっぱり椎名林檎は右翼に好かれるんだ」と言われそうだが、むしろ右寄りの人間から見れば、椎名林檎という人が書いてきた歌詞はリベラルでこそあれ、右らしき思想の片鱗はみじんも感じさせるものではない。「右から見るから彼女が右に見えないんだ!」「どうみても右だ!」という人は、自身が左に寄っている可能性をご検討いただきたい。

林檎氏作詞の「夢のあと」という歌がある(全歌詞はリンク先を参照)。

「同じ時代、同じ地球に生まれた者同士の連帯」を呼びかけたこの歌は、9・11を目の当たりにして書いたものだと本人が語っている。これが「右寄り」だろうか。

また、「ありあまる富」は、経済至上主義、新自由主義に批判的なスタンスであるとも読み取れる。

「最近急激に偏向したのだ」という声もあろうが、「NIPPON」以降に書かれた歌を見ても、たとえば「赤道を超えたら」という歌では、〈平和を祈るのは偏に女の生業 男は戦を勃発させるほう〉とある。女性である林檎氏は「平和を祈るほう」であり、また「戦を勃発させる」男を賛美するような内容の歌詞ではもちろんない。

林檎氏がこれまで歌ってきたのは、主に女の性【サガ】であり、この世の無常である。それを独自の言語感覚と物語と哲学で表現している。

「NIPPON」は、おそらく「サッカーW杯のテーマ」「日本代表選手を鼓舞するような」というお題を与えられたなかで、「らしさ」を出すべく書かれたものだ。

諸行無常の世の中で、試合中に一瞬の光を放つ選手たちの戦いぶりを描くとき、〈混じり気のない気高い青〉が示すものは(純血主義などではなく)、命がけで脇目も振らず、雑念など混じらない精神で試合に臨む選手たちの士気だろう。

それでも「天晴」「出陣」「死」といった言葉にナイーブになる向きがあるのかもしれないが、それを言うなら林檎氏には「労働者」という歌もあるし、「戦中スローガン」を茶化した歌詞もある(「キラーチューン」出だし部分)。

特攻隊賛美だ、という感想もあったようだが、そういう方にはL’Arc-en-Cielの「Driver’s High」の感想を伺ってみたい。

「NIPPON」の歌詞が気に入らなくても構わないが、一歌詞を取り上げて憲兵宜しく取り締まるのは野暮であるし、まさしく彼女のこの歌と「縁がない」のであって、自分の趣味嗜好を公憤に擬態させて社会への問題提起をしたかに装うのはおかしい。

■歌がよければそれでよい

そもそも一ファンからすれば、思想などどちらでもよい。仮に彼女が共産党機関紙「赤旗」に出たからと言ってその音楽を聞かなくなることはない。彼女の生き様の結果、いい曲ができてくれさえすればそれでいいのだ。同じ理由で、思想はおそらく自分とは全く違うと思われるASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲も聞く。

林檎氏がパフォーマンスで使う拡声器が悪い(右翼っぽい)というならSEALDsはどうなるのかという話になるし、「旭日」を模した旗に関しても、ならば朝日新聞はどうなんだということになる。すべてがブーメランだ。

「政党の会合で講演するなんて!」「歌手や芸能人が政治と密着するな」という批判はあってもよいが、ならば共産党機関紙「赤旗」紙面を飾っている芸能人や、「安保法制反対」を唱えてデモの先頭に立ち、ガッツリ政治運動に食い込んでいた石田純一らをはじめとするお歴々にも「政治への接近」を理由に批判を浴びせなければおかしいのではないか。

フジロックにSEALDsが出演したことを「音楽に政治を持ち込んで何が悪い」とした人たちは、林檎氏のやらんとしていることに対しても「何が悪い」と言ってもらいたい。

■政治を大いに使えばいい

確かにある時期から、林檎氏が「日本文化」「伝統の継承」などについて表立って語るようになった。憶測に過ぎないが、これは右左の思想ではなく、歌舞伎という伝統芸能の世界と接点を持ったからではないかと思う。彼女は中村勘三郎氏の依頼で歌舞伎に楽曲を提供しているし、歌舞伎鑑賞にも足しげく通っているという。勘三郎氏亡き今、氏の「遺志」を何らかの形で継いでいきたいという気持ちもあるのかもしれない。

いずれにしても日本の伝統文化を守ろうというのが右翼とも思われず、これも批判としては全く当たらない。その「野望」のために政治を大いに使ってやろうというならそれこそ「天晴」ではないだろうか。