靖国神社という「偽の伝統」

2017年01月09日 13:01


慰安婦像の騒ぎにからんで、また韓国が稲田防衛相の靖国参拝を持ち出している。靖国には朝鮮人日本兵2万1000人(すべて志願兵)の霊も祀られているので、彼らがそれを攻撃するのは天に唾する行為だが、それはともかくとして、こういう非生産的な紛争を避けるために、閣僚の参拝はやめたほうがいいと思う(論理的な反論は歓迎する)。

もちろん政治家が参拝するのは自由だし、それは西洋的な意味での「政教分離」に反するわけでもない。国家神道には宗教としての中身はなく、靖国は神社というよりアーリントン墓地のようなものだ。このような慰霊施設はどこの国でもあり、それを他国が非難するのはお門違いである。

しかし靖国神社は「非戦の誓い」を立てる場所ではない。それは1862年に「招魂祭」を行なうためにできた天皇家の私的な慰霊施設だった。それを明治政府が国家護持したのは、キリスト教のような一神教がないと国民を戦争に動員できないからだ。それは小島毅氏の指摘するように「天皇のためにみずから進んで死んでいった戦士を顕彰する施設」であり、国民に戦争で死ぬインセンティブを与えるイデオロギー装置だった。

これは驚くほどうまく機能した。来世を信じない日本人が「靖国で会おう」を合言葉にして死地に赴いたのは、「万世一系の天皇」が神の代用品となり、個人を超えた永遠の「国体」という幻想を彼らに植えつけたからだ。これは日本の伝統ではなく、たかだか17世紀の水戸学までしか遡れない。明治政府の実態は薩長の藩閥政権だったが、水戸学の創作した「偽の伝統」を借りて、正統性を粉飾したのだ。

最近の「生前退位」をめぐる論争も、天皇家の長子相続と一世一元を前提にして伝統を守るとか守らないとか騒いでいるが、これも明治以降である。それも一つの伝統には違いないが、「国体」はバーク的な意味での自然発生的な伝統ではなく、長州閥が政権を維持するために創作した伝統である。

だから長州の伝統を継ぐ安倍晋三氏が私的に靖国参拝することは自然だが、日本政府の閣僚が「明治政府のイデオロギーを継承する」と世界に示すことは賢明とはいえない。偽善的な「リベラル」が没落するのは当然だが、あとに残るのがこうした時代錯誤の「保守」だけだとすれば、あまり歓迎できない。

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
池田 信夫
アゴラ研究所所長 青山学院大学非常勤講師 学術博士(慶應義塾大学)

関連記事

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑