大名の序列と天皇と将軍の関係の真実

2017年02月04日 12:00

歴史に謎はない(戦国編)「おんな城主 直虎」は苦戦が予想されていた割には好調。戦国末期という時代の雰囲気をマイルドだがまずは的確に描いていてバランスが良い。映像的にも江戸時代的な清潔すぎる美意識に傾かず、しかし、「平清盛」のときのようなわざと悪しく薄汚いこともなくいいのではないか。

今川義元はいかにも公家のように描かれているが、実は、室町時代の大名はそれほど官位は高くない。義元については詳細が分からないが、従四位というところだろう。武田信玄で従四位大膳太夫だ。将軍もだいたいは三位くらいだ。

それでは、江戸時代の将軍や大名はどんなところだったのか。

まず、徳川将軍家は五摂家につづく清華家相当だ。公家で言えば西園寺、三条、久我などと同格だ。ちなみに豊臣家は五摂家相当だった。清華家は太政大臣になることはできるのだが、摂関にはなれない。将軍は原則として正二位右大臣だった。

そして、尾張、紀伊、加賀前田が従二位権大納言、水戸や一橋、田安、清水の御三卿が従三位中納言くらい。その次が、従四位上の高松松平、彦根井伊、島津、伊達といったところ。さらに、正四位下の越前松平、会津松平など。従四位下になると毛利、山内、上杉など国持ち大名が出てくる。したがって、四国では石高は徳島、高知、松山より下の高松が一番上だった。(江戸初期と幕末は高い官位が多くて例外)

高家は特別な扱いで、吉良は従四位上だから上杉などより高位だった。また古河公方の流れをくむ喜連川氏は化にはないが四位以上と同格という不思議な扱いだった。

この官位は、殿様になってからある程度の時間がたってからのものである。また、幕府から将軍の代理で上洛したりすると、朝廷との関係で仕事をしたりすると、ワンランクだけだが上に行けることもあった。

そんなわけで、大名の間では、朝廷からもらう官位というものが格別に重要だし、一般の武士においては、とくに東国の武士の場合、朝廷が身近に感じられる事は少ないという二重構造があった。

幕府の権威を上げるために朝廷を利用したはずが

豊臣の天下から徳川の天下への移行は、勅許を得ない私戦の結果にすぎないというややこしい事情があった。

豊臣秀吉は自らが関白太政大臣となることで、朝廷という政府を率い、武家と公家とを同列の貴族階級として扱った。天皇がいわば国家元首であることを再確認したのである。ところが、後陽成天皇が豊臣びいきであることを嫌った德川家康は朝廷の力を形骸化することに全力を上げ、朝廷にことあるごとに干渉したので対立が激化した。

しかし、その孫である和子(後水尾天皇の中宮。東福門院)やその娘である明正天皇の尽力もあって、幕府もあまり細かく朝廷のことに干渉はしなくなった。

その一方で江戸城に公家の娘たちが進出して京都風になっていった。武人として天下を取った家康・秀忠と違って家光以下になると自分にはカリスマ性がない。そこで、朝廷からの委任を権威の根拠にするとか、京都にヒントを得た雅やかな風俗や儀式でほかの大名に差を付けようとしたのだ。

その嚆矢は公家の六条家出身で門跡寺院の尼さんから家光の側室に転じたお万の方だが、京都出身の母を持つ五代将軍綱吉も公家出身の女性を好んだし、六代将軍家宣は妻の父である近衛基煕を江戸へ呼んで顧問のようにした。

さらに、将軍の側近たちは、将軍自身がわがままでなんでも思い通りにできるものではないと諫める必要から、天皇の権威を利用するようになっていった。とくに松平定信は、将軍家斉に「六十余州は朝廷からの預かり物であり、ゆめゆめ自分のものであるなどと考えてはいけません」と諭していたくらいだ。

しかし、この松平定信の勤王思想は、朝廷が誰かほかの勢力に担がれるとか、自分たちが主導権を握ろうとしたらどうなるという矛盾をかかえ、それが、幕末になって意味をもってきたのである。

水戸学の生まれた背景

水戸学については、それが勤王思想を生んだというのは誤りであって、もともと、上記のような理論化はされていないが、上記のような豊臣政権以来の素地があって広まったのである。

水戸光圀が、「大日本史」を編纂し、勤王思想を広めたのは、複雑な背景がある。そもそも、将軍と大名は同格であって序列が違うだけか、主君と家臣なのかははっきりしていなかったのである。つまり、譜代大名は豊臣体制下における将軍家の家来なのだが、外様大名は同輩である。

また、御三家のような家康の男系子孫には、これも将軍家と同格だという意識がある。とくに、尾張と紀伊には、将軍家と尾張、紀伊で御三家という意識すらあった。やや格下だった水戸が水戸学という尊皇思想を広めたのは、格下だといわれて尾張や紀州より下にされない理論武装という面があった。

ただし、尾張藩初代の義直などには明確な朝臣としての意識があり、水戸の専売特許ではなく、理論化をしたにしても創造したのではない。また、水戸が南朝を正統としたのは、徳川家が新田一族だったという理由もある。

そうした複雑な背景を持った水戸学だが、水戸斉昭は父である治済から「養子に行くときも譜代大名はよろしくない。譜代は何かことがあれば将軍家に従順でなくてはならないから、天子に弓を引くことになるかもしれない。我らは、将軍家がどんなにもっともだったとしても、天子に弓を引く場合には従えないと心得よ」とまで教え込まれた。

斉昭は子の慶喜にも「公にいうべきことでないが、心得のために内々に申し聞かせたい。我らは御三家や御三卿として幕府を助けるべきはいうまでもないが、もし朝廷と幕府とが弓矢に及ぶことがあれば、我らはたとえ幕府に背いてでも、朝廷に弓を引いてはならない。これは、光圀公以来の家訓であるから、ゆめゆめ忘れるな」と申し渡しているほどだ。

しかも、斉昭は祖母は一条家、母は外山家(明治になって子爵)という公家の娘で、同母姉が幕末の朝廷の最高実力者だった鷹司政通の夫人、正室の吉子は有栖川宮家出身だったから血統から言えばほとんどお公家さんそのものだった。

この貴種として生まれた斉昭だが、長男ではなかったうえに、兄である徳川斉脩が死んだのちには、家老たちが将軍家斉の子を養子に迎えようという動きを見せた。それを、とくに中堅以下の家臣たちの支持でなんとかしのぎ藩主となった。

しかし、「攘夷」については、息子の慶喜がのちに回想したところによると、藩政改革を企てたとき、自派を形成して反対派に対抗するために使ったスローガンに過ぎないという。

だが、このことで全国の国粋主義者たちのカリスマになってしまい、常に過激な言動をせざるを得なくなり、幕府から致仕謹慎を命じられた。

水戸斉昭の暴走と安政の大獄&桜田門外の変

黒船が来航すると老中・阿部正弘は斉昭を海防参与に起用した。ガス抜きをしたつもりだったが、暴走して手が付けられなくなる。息子で英明といわれた慶喜を将軍家の跡目となる資格がある一橋家の養子にしたことも、斉昭の言動を穏当にするものでもなかった。

本当に幕閣が困ったのは、日米通商修好条約を受け入れるかどうかとの問題が出たときだった。この交渉に断固反対したのが水戸斉昭である。斉昭はとくに「徳川家は征夷大将軍であろう。それなら夷敵を討つのが仕事でないか。その任を果たさぬのなら、朝廷も許すまいし、大名たちもいうことを聞かなくなるであろう」と水戸派らしい正論で迫った。

そこで、阿部正弘のあとを継いでいた老中筆頭の堀田政睦は、いっそ、条約に勅許を得れば斉昭らを説き伏せられると考えて、「条約を発効させるには京の天皇の許しが必要である」と突然、いってハリスを驚かせ、自らは京に上って朝廷工作を開始した。ところが、このころ、朝廷では幕府への政治委任が丸ごとであるべきでないという考え方が浸透してきていた。

そこに、水戸斉昭が猛然と条約を勅許しないようにという工作をかけたからたまらない。水戸斉昭の正室は有栖川宮家出身で、姉は太閤鷹司正通の正室であるから、幕閣よりよほどパイプが太い。

堀田は、公家に金銀を撒けば容易に勅許など出るとたかをくっていた。ところが、孝明天皇自らがこれを察して、賄賂を受け取らないように先回りして指示を出されたのだから思い通りにならない。

禁裏では最初のころは太閤鷹司正通が開国派、関白九条忠尚が攘夷派であったのが、いつの間にか九条関白が彦根藩士長野主膳の工作で開国派に、それに対抗した鷹司太閤が攘夷派に立場を入れ替えた。しかし、どちらにしても、天皇の攘夷への決意は固く、ついに勅許を得られないまま堀田正睦は江戸へ戻った。

この不始末を受けて、守旧派の老中たちの工作で井伊直弼が大老に就くことになった。堀田は罷免され、将軍継嗣は慶福(家茂)となった。水戸派はそれでも、朝廷に条約は勅許せず、将軍継嗣には慶喜をと意向を表明させようとした。しかし、前者は受け入れられたが、後者については幕府にまかせるということになった。このあたり、井伊大老の部屋済時代からの個人的な側近である長野主膳の京都での工作が効果的に働いた。

井伊大老は、日米修好通商友好条約には勅許なしで調印し、将軍家定の死去のあと慶福が家茂と改名して第十四代将軍となった。条約無断調印に対して、水戸斉昭、尾張義勝、松平春獄、一橋慶喜らが猛抗議したが、彼らは不時登城などの名目で謹慎させられた。1858年のことだ。

京都では孝明天皇が違勅に激怒して譲位を口にされたが、井伊大老は「承久の変の前例もある」と天皇を処罰する可能性まで口にした。

しかも、七月一五日、島津斉彬が急死したことで両派のバランスは崩れた。斉彬に率いられた薩摩軍が上洛すれば幕府といえども安閑とはできないと誰もが考えていたから、その可能性がなくなることの意味は大きかった。

朝廷からは「幕府は御三家を始めとする諸大名らと相談して国内治平、公武合体を図れ」といった密勅が幕府だけでなく水戸家などに出された。内容はなんということはないが、幕府の頭越しに、しかも、謹慎中の御三家も政治に参加させよということであるから、それまでの朝幕関係を根本から問い直すものでいささか軽率だった。

ただ、この密勅には九条関白の副署がなかった。この情報を手に入れて知らせてきたのは長野主膳だが、井伊直弼はこれを盾に取りこれが水戸藩の工作で出されたものであることを怒って、水戸藩家老などを更迭させた。

水戸藩ではこれに反発するものが多く、腹を切って抗議するものも相次ぎ、江戸へ向かおうとするものがいまの千葉県松戸市北部にあって水戸街道の宿場町だった小金に集結するなど騒然とした。もはやクーデター前夜の混乱状態だった。

京都では幕府よりの九条関白が窮地に立っていた。関白が罷免されれば、幕府と朝廷の間は抜き差しならぬものになるとみた幕府はついに大粛正に踏み切った。京都で暗躍していた元若狭藩士梅田雲浜を皮切りに青蓮院宮、公家から志士たちに至るまで二百人ほどが検挙され、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら八人が死罪となった。

藩内では過激派が跋扈し桜田門外の変を起こし、こうして、自分の撒いた種で幕府も水戸藩も制御不能にしてしまった斉昭は失意の内に世を去った。

井伊直虎と謎の超名門「井伊家」 (講談社+α文庫)
八幡 和郎
講談社
2016-11-18
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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