確率で有罪立証しようとした検察官の誤謬

裁判いらすとや

コリンズ訴訟と言われている米国で有名な判決がありました。事件の内容は次のとおりです。

1964年6月18日の正午少し前、ロサンゼルスのサンペドロ地区で年配の女性がハンドバッグを奪われた。
目を上げた彼女は、自分のハンドバッグを持った金髪をポニーテールにした若い女が走り去るのを見た。通りの端にいたジョン・バスという人物は、悲鳴と叫び声を聞きつけて通りを見ると、女が駆け出してきて通りの向かいの黄色い車に乗り込んだ。

向きを変えて走ってきた車は、彼から2メートルも離れていないところを走り去った。車を運転していた男性は顎髭と口ひげを生やした黒人だった。なお、若い女は身長150センチ強の白人で、深い色の金髪をポニーテールにしていた。

このような目撃情報によって逮捕されたのがコリンズという黒人男性でした。
検察官は極めてユニークな方法でコリンズを有罪にしようとしました。

信頼できる数学者を集めて、次の6つの要素を満たす確率を「極めて控えめに」算出させたのです。その結果は以下のとおりです。

顎髭のある黒人 確率10分の1  口ひげのある男 確率4分の1
金髪の白人の女 確率3分の1  ポニーテールの女 確率10分の1
車内に人種の異なる男女 1000分の1 黄色い車 10分の1

「車内に人種の異なる男女」が乗っている確率が「極めて控えめ」であっても1000分の1というのは1964年のアメリカの人種差別を表していますね。

それはさておき、これらの確率を掛け合わせると1200万分の1になるます。しかも、これは「極めて控えめに」算出されたものなので、実際は10億分の1くらいの確率であると検察官は論告求刑で述べました。
これに対し、最高裁は次の二点の重要な指摘をしました。

まず、検察官が挙げた確率が正しいと言うためには、「顎髭のある黒人」「口ひげのある男」というような特徴が一般人口の中で独立的に発生しなければならないという仮定に基いている必要がある述べました。

個々の確率を掛け合わせる以上、それぞれの確率は独立でなければらないのは当然のことです。
例えば、「犯行に使われた車は、品川ナンバーで、シャコタンにした白のレクサス」だという目撃証言があったとしましょう。
じゃあ、品川ナンバーの中で「150台に1台が白のレクサス」という要素と「200台に一台がシャコタンの車」という要素を掛け合わせれば犯行車両の確率がはじき出せるのでしょうか?

これは明らかにおかしいですよね。
だって、品川ナンバーでシャコタンにしている車はレクサスだけじゃないでしょう。
スカイラインもあればクラウンだってあるかもしれません。
本来であれば、「150台に1台が白のレクサス」に「白のレクサスでシャコタンにしている確率」を掛け合わせるべきなのです。

これと同じで、コリンズ訴訟では「顎髭のある黒人」と「口ひげのある男」というものすごく重複している可能性のある要素を別個独立の要素として確率計算をしているのです。

ぶっちゃけていえば、「検察官はもう一回確率の勉強をしてこい!」と最高裁は述べたわけです。

もう一つは、一般に訴追者の誤謬(検察官の誤謬)と言われる点を指摘しました。

仮に1200万分の1という確率が正しいとしても、それは単に「無作為に抽出した男女が、(上記)6つの特徴を備えている確率が1200万分の1」だということを述べたに過ぎないということです。ロサンゼルス地区に「そのような(特徴を備えた)男女が少ないことは認めるが、その少数の中のどの人物が強盗の罪を犯したのだろうか?」と最高裁は述べています。

この点はなかなか理解が難しいので、噛み砕いてご説明します。

検察官が確率を使って証明するとしたら、「コリンズたち(被告人たち)が無実である確率」が1200万分の1であることを証明べきなのです。

「被告人たちが無罪である確率」がこのような天文学的確率であれば、有罪の証明は成立したと言えるでしょう。
しかし、本件で検察官が証明したのは、目撃証言に合致した男女が存在する確率が1200万分の1というだけのことなのです。
最高裁が述べているように、「6つの特徴を備えて男女はとてもとても少ない」という事実を述べたに過ぎません。

もっとわかりやすく言えば、米国内に在住する日本人の数が1200万分の1だとしましょう。あなたは米国在住の日本人です。
突然警察がやってきて、「犯人は日本人だからお前を逮捕する」と言われたら、「冗談じゃない、私の他にも日本人はいるだろう!」と言い返すでしょうし、事実あなたは犯罪には何ら関係していません。

このように、検察官としては、あなたが無罪である確率が1200万分の1であることを証明しなければならないのです。
これが「訴追者(検察官)の誤謬」と一般に言われている言葉の意味です。

それにしても、1964年とはいえ、米国の検察官はチャレンジングですね。法廷でシロクロつけようという態度が爽やかです。

日本の検察は、無罪判決が出ると黒星となって出世に響くので、立証に自信がなければ「起訴猶予」とか「不起訴」にしてウヤムヤにしてしまいます(起訴、不起訴を検察官が決める起訴便宜主義を最大限利用しているのです)。

逮捕され身柄拘束されてニュースにもデカデカと出された被疑者としては、裁判所で無罪判決をもらった方が名誉も回復できます。個人的には、被疑者に起訴を求める権限を与えてもいいのではないかと思っています(身柄拘束という甚大な被害を被った被疑者に限定してもいいでしょう)。

また、限りなく黒に近い被疑者が、公開の法廷でなく検察庁という密室でお咎めなしになるというのもいかがなものでしょう?昨今は、検察審査会が、検察庁の不起訴案件を「起訴すべし」という決定を下すことも多くなりましたが、減点主義をなくして検察官がチャレンジングになることこそ本来のあるべき姿ではないでしょうか?

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荘司 雅彦
幻冬舎
2016-05-28

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年2月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。