思うに、個人的には「スゴイ人」というか「賢い人」というか「声が大きい人」を見るのはカタルシスになるのだけど、個人的には「幸せそうな人」を見る瞬間が多い人生が、豊かな人生だと思う。それは人の幸せに対して感性が鋭くないとダメなわけで。幸せの多様性を知らないとだめなわけで。
— 常見陽平 (@yoheitsunemi) 2017年3月12日
このツイートが拡散している。2017年3月17日8時30分(日本時間)現在、130RT、258いいねされている。
思うに、個人的には「スゴイ人」というか「賢い人」というか「声が大きい人」を見るのはカタルシスになるのだけど、個人的には「幸せそうな人」を見る瞬間が多い人生が、豊かな人生だと思う。それは人の幸せに対して感性が鋭くないとダメなわけで。幸せの多様性を知らないとだめなわけで。
語句の重複、論理の飛躍などは御愛嬌ということで。
でも、本当にそう思うのだ。
なんというか、またSNS疲れ、ネット疲れになっており。家族や信頼できる人との会話と、新聞・雑誌・書籍を読むこと、日常的に音楽を聴き、クルマに乗ること、仕事をすることは楽しいのだけど。日々、虚勢を張ったデキる人、賢い人、頑張っている人アピールを見るのが辛くなっており。そういう人は、幸せそうに見えない。いや、会社や社会を変えるために頑張っているんでしょうよ。
個人的には「幸せな人」というか「幸せそうな人」を見ることが多い人生が、幸せな人生だと思うのだよね。それは機会を創りだしていること、恵まれていることだけではない。幸せの多様性を知らないとダメなのだ。感性が鋭くないといけないのだ。
一応、元人事担当者視点、教育者の端くれ視点として、どんな人でも「なぜ、この人はそう考えるのだろう?」「なぜ、こういう人になってしまったんだろう?」と考えることにしている。相手に対する想像力であり。ある意味優しさであり、厳しさでもあると思う。
そういえば、学生時代にお世話になった楠木建先生のこの本。楠木先生らしい姿勢が大好きで。彼は趣味の読書をする時に、別に書き手に賛同しなくても「何で、こう考えるのだろう?」「この人、こんなことを考えちゃうのか。面白いなあ」という姿勢を大事にしているそうで。そう、その感じ。
いや、私はそんなことを言いつつ、偽善、茶番に対する怒りが強い方なので、なんだかんだ言って多くの人を認めず、斬り捨てているようにも思うのだけど。
とはいえ、立場の弱い人(って言う言い方もあれだけど)に対する想像力は大事にしている。この立場が弱いというのも、言ってみればエゴなわけで。「幸せ」「幸せそう」と立場の違いはあまり関係がなくて。私自身の原体験は、病人が多い(しかも重い病気の)家庭に生まれたというもので。病気などは、「違い」であり、「向き合う」ものなのである。
最も、「恵まれていなくても幸せ」という姿勢は気をつけなくてはならず。経済的に恵まれていないことを含め、いつの間にかそれが普通で、受け入れてしまっている状態であるともいえ。
とはいえ、幸せそうに笑うことができるということ、これが大事なのだと思うし、その笑顔を腹いっぱい味わうことができること。これだよなって思う。
笑顔に満ちた街、台北より。
・・・しょうもないけど、最近の願掛けは、ATMで「77,777円」か「55,555円」でおろすこと。これ、小銭もちょうどいい感じになって便利。
そして、新作の予約と・・・。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2017年3月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。