意外と知られていない国民皆保険の歴史 --- 松村 むつみ

2017年06月22日 06:00

すっかりわれわれの生活に浸透し、当たり前の制度として認識されている国民皆保険。現在では、アメリカを除く西欧、アジアでも日本、韓国、台湾などの先進国では比較的一般的な制度となっています。皆保険制度は戦争や高度成長の時代を背景に先人たちが苦労して築き上げたものでしたが、わが国では、逼迫する医療財政から存続を危ぶむ声も出ており、今それが根本から問い直されています。

わたしは、「アゴラ」で、現在の医療政策やその問題点について今後も記していく予定で、読者の皆様にも問題意識を共有していただきたいと考えておりますが、現在ある問題は、歴史の中にその発端を見出すことができます。それを踏まえて、今回は、意外と知られていない国民皆保険の歴史について振り返ってみたいと思います。

国民皆保険が達成されたのは1961年です。それまでは健康保険は強制加入ではなく、全員をカバーするものではありませんでした。医療制度改革というと、現在では、厚生労働省など中央省庁が率先してトップダウンで行う事業というイメージがあるかもしれませんが、日本の医療保険の創世期の動きは、富国強兵などの国家の政策と並行して、農村の貧困対策などに基盤をおいた地方の運動がある一定の役割を果たしていました。

1. まもなく100年になる、わが国の医療保険の歴史

1922年、健康保健法が成立しました。これはわが国初の社会保険制度で、これはストライキを繰り返した工場労働者などを対象としており、ドイツの疾病保険法を参考に作られました。このときの加入者は全人口の3%程度でした。工場労働者には医療保険の入る道が確保されましたが、一方、地方の農村や漁村は貧困にあえいでおり、病院にかかることもできず、戦争に必要な兵力の確保もおぼつかない状態でした。

一方、我が国ではじめて産業組合による医療事業がはじまったのは1918年になります。産業組合とは農業協同組合の前身で、農村における医療事業の提供と、1938年の国民健康保険法の成立に影響をもたらしました。当初島根県青原村で結成された医療利用組合は、新戸部稲造や、キリスト教徒で社会運動化であった賀川豊彦らの尽力により、その後全国に普及していきます。農村への組合病院設立も行われ、その後の国民健康保険普及の基盤のひとつとなったようです。

2. 戦時体制における保険加入促進

1937年、日中戦争がはじまります。戦時体制下での「健兵健民」政策の一環として、1938年、厚生省が創設され、国民健康保険法が成立します。この時点では、健康保険への加入は任意であり、健康保険料および自己負担は高く、貧しい農民は加入が難しかったようです。1941年、太平洋戦争に突入しますが、「国民皆保険」というおなじみの言葉は、「国民皆兵」をもじってこの頃に使用されはじめました。1942年、国民健康保険法の改正があり、国民健康保険組合の強制設立が定められ、医療保険の適応人口が拡大し、全市町村の95%程度に国保制度が実施され、加入者も2000万人を超えました。

しかし戦争が進むにつれ制度は立ち行かなくなり、医療機関の閉鎖や医薬品不足に悩むようになり、敗戦とともに国民健康保険は事実上の休廃止となりました。

3. 国民皆保険成立、岩手県から全国に

敗戦後、健康保険組合の解体が続き、医療保険制度は崩壊寸前となりました。これを受けて国は、1948年に国民健康保険法改正を行い、国保の実施主体を国保組合から市町村公営に移行しました。

1955年、社会党の左右両派が統一し、一ヶ月遅れて社会党の動きに刺激された保守合同が起こり自由民主党が結成されました。経済においては、国民総生産(GNP)の伸びが12.1%を記録し、経済指標の多くが戦前を上回り目覚ましい復興を記録しましたが、低所得者の生活水準は悲惨で、1956年の厚生白書では、社会保障充実の必要性が提言されました。

一方、1955年、岩手県は国に先駆け、戦前の医療利用組合をベースとした、国保組合や行政、保健医療にかかわる人々の尽力により、健康保険の100%加入を達成しました。岩手に次いで、1956年に滋賀県が、1957年に山形県が皆保険を達成しました。

厚生労働省は、1957年に「国民健康保険全国普及4カ年計画」を策定し、60年までに未加入者を全て加入させるという目標を設定し、1958年新国民健康保険法が成立しました。日本医師会は反対しましたが、それほど紛糾せずに短期間で法律は制定されたようです。

こういった流れのもと、1961年全国の自治体で国民皆保険が達成されました。このときの国民負担割合は、現在とは異なっていて、被用者保険本人は負担なし、家族5割、国保は5割でした。1968年に国保が3割負担となり、1973年被用者が3割負担に変更されています。

4.国民皆保険は、人口ボーナスを背景とする経済成長を前提とした制度だった

1963年から1973年にかけて、国民医療費は名目で年平均19%の高騰を続けました。各保険者は保険料率の引き上げなどに対応しなければならなかったが、それでも、国民総所得が名目で年16%伸びており、人口構成も現在とは異なっており、1961年の高齢化率(65歳以上が総人口に占める比率)は5.8%で、2016年度の26.6%よりもかなり低い数値となっています。合計特殊出生率も2以上の水準を保っていました。

5. 老人医療費無料化とオイルショック、医療費の負担は現在へと続く問題に

1960年代、全国的に社会党/共産党の支援を受けた革新系首長の台頭が起こり、以前より医療費10割給付の試みが行われていた岩手県の村で老人医療費が無料になったのを皮切りに、1969年東京都で美濃部都知事が老人医療費の無料化を行いました。この動きは全国の自治体に広がり、1973年に田中角栄首相(当時)により国策となりました。この時点から、東京都および国の医療財政は悪化の一途をたどることになったといえます。田中角栄は1973年を「福祉元年」と銘打ちましたが、奇しくも直後に第一次オイルショックが起こり、高度成長は終焉したのです。その後、1983年無料化に終始部が打たれましたが、現在に至るまで医療費は膨張を続け、国民皆保険の維持が危ぶまれる事態となっています。

参考文献
前田信雄『国民皆保険への途 先人の偉業百年』(2016年:勁草書房)
島崎謙治『医療政策を問い直す 国民皆保険の将来』(2015年:ちくま書房)
土田武史『国民皆保険50年の軌跡』(2011年:国立社会保障人口問題研究所)


松村 むつみ
放射線診断医、メディカルライター
アゴラ出版道場二期生

東海地方の国立大学医学部卒業、首都圏の公立大学放射線医学講座助教を得て、現在、横浜市や関東地方の複数の病院で勤務。二児の母。乳腺・核医学を専門とし、日常診療に重きを置くごく普通の医師だったが、子育ての過程で社会問題に興味を抱き、医療政策をウォッチするようになる。日本医療政策機構医療政策講座修了。日々、医療や政策についてわかりやすく伝えることを心がけている。

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