「神」を信じれば全てが許されるか

先ず、スパイン東部バルセロナで起きた白ワゴン車暴走テロ事件の捜査状況をまとめる。

▲バルセロナのテロ事件の犠牲者を慰霊する人々(2017年8月18日、英BBC放送の中継から)

▲バルセロナのテロ事件の犠牲者を慰霊する人々(2017年8月18日、英BBC放送の中継から)

これまでの捜査で12人を超えるモロッコ出身者らのイスラム過激派が関与していた疑いが浮上してきた。容疑者の一人ユネス・アブーヤアクーブ容疑者(22)は国境を越えフランスに逃走した可能性があるとみられ、スペイン警察当局はフランス側と連携して行方を追及している。事件に関与した疑いのある容疑者のうち、4人は逮捕され、5人はカンブリスの現場で警察に射殺された。

事件が起こったのは、①バルセロナの繁華街ランブラス通り、②バルセロナ南部約100キロのリゾート地カンブリス、③そして前日16日の住居爆発事故が発生したアルカナー市の3カ所だ。特に、アルカナー市では爆発した住居からガス爆弾が発見されていることから、テロリストたちはガス爆弾を製造中、誤爆させたと受け取られている。

まとめると、バルセロナのテロ事件ではこれまで14人が死亡し、約130人が負傷。少なくとも12人の容疑者が関与した組織的テロ事件だった可能性が考えられている。イスラム過激派テロ組織「イスラム国」(IS)は犯行声明を出した。

今回の事件で使用した白ワゴン車を借り、後日死亡したとみられる17歳のモロッコ人容疑者は2年前、「自分が神になれれば、イスラム教以外を信じる人間を全て殺したい」という趣旨の内容をインターネットのSNSで書いていたという。

この話を読んで フョードル・ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の主人公イワンの「神がいなければ全てが許される」という台詞を思い出した。モロッコ人容疑者はイワンとは正反対に、「神を信じれば、全てが許される」と考えていたわけだ。その意味で、モロッコ人容疑者とイワンの世界はまったく異なっているが、両者とも自身の行動の正当化を「神」に置いている点で酷似している。

もう少し厳密にいえば、「神がいなければ」(イワン)と「神を信じれば」(モロッコ人容疑者)と前提こそ異なるが、いずれも「全てが許される」という同じ結論となっているわけだ。

どちらが許される犯罪かという問題ではない。どちらも大きな犯罪である点では変わらない。イワンの世界は神、道徳、倫理などを失い、自己中心の欲望を制限する手段のない社会の恐ろしさを物語る一方、モロッコ人容疑者の場合、神を信じている者が「自分の信仰こそ唯一正しい」と独善的、排他的に考え、その狭い宗教の世界に生きている人間の怖さを示しているといえるだろう。

ちなみに、唯一神教の攻撃性については、このコラム欄でも数回、言及してきた。信仰の祖アブラハムから派生した唯一神教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の教えには潜在的攻撃性がある(「『妬む神』を拝する唯一神教の問題点」2014年8月12日参考)。

スペインのテロ事件の容疑者は、神を信じるゆえに他の世界に生きる人間を殺すことに躊躇しない。同じイスラムの教えを信じる大多数の敬虔なイスラム教徒からは「それはイスラム教ではない」と批判され、他の宗派の信者からは「その神は神ではない」と一蹴され、神を信じない人々にとっては「狂信」以外のなにものでもないわけだ。

いずれにしても、無神論者イワンもイスラムの教えを信じるモロッコ人容疑者も神の存在の有無を掲げ、その言動を正当化していった。神はいつの時代も利用され、人間の蛮行の尻ぬぐいをさせられてきた。

なお、モロッコの場合、シリアやイラクの聖戦に参加したイスラム過激派は1600人に及ぶと推定されている。モロッコでは若者たちの失業率は高く、未来に希望を見いだせない青年たちがイスラム過激思想にかぶれていくケースが多いといわれる。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年8月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。