「妬む神」を拝する唯一神教の問題点 --- 長谷川 良

アゴラ

オバマ米政権は8月8日、イラクで勢力を拡大するイスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国」(IS)に対して空爆を実施した。ISは先月、イスラム国の建設(シャリア)を宣言し、イラクでその勢力を拡大している。一方、ナイジェリアではテロ組織「ボコ・ハラム」(西洋の教育は罪)は少数宗派への虐殺を繰り返している。ISもボコ・ハラムも異教徒に対しての残虐行為を躊躇しない。拘束した異教徒の首を跳ねるシーンをビデオに撮って世界に流しているほどだ。その非情な言動に対して、西欧諸国はショックを隠せない。21世紀の現代に突然、数世紀前の暴徒が飛び出してきた、といった驚きだ。


神学者ヤン・アスマン教授は、「「唯一の神への信仰(Monotheismus)には潜在的な暴力性が内包されている。絶対的な唯一の神を信じる者は他の唯一神教を信じる者を容認できない。そこで暴力で打ち負かそうとする」と説明し、実例として「イスラム教過激派テロ」を挙げる。国際テロ組織アルカイダの行動にも唯一神教のイスラム教のもつ潜在的暴力性が反映しているというのだ。同教授は「イスラム教に見られる暴力性はその教えの非政治化が遅れているからだ。他の唯一神教のユダヤ教やキリスト教は久しく非政治化(政治と宗教の分離)を実施してきた」と指摘し、イスラム教の暴力性を排除するためには抜本的な非政治化コンセプトの確立が急務と主張している。

ISやボコ・ハラムの暴力性をみると、アスマン教授の説の正しさを感じる。イスラム根本テロ組織は剣を振り回しながら、神の敵を処罰しなければならないといった使命感で暴走する。それに対し、同じアブラハムを信仰の祖と仰ぐユダヤ教とキリスト教にはその暴力性が見られないという。アスマン教授は「ユダヤ教やキリスト教は唯一神教の政治的な要素を排除するプロセスを既に経過してきた。ユダヤ教の場合、メシア主義(Messianismus)だ。救い主の降臨への期待だ。キリスト教の場合、地上天国と天上天国の相違を強調することで、教えの中に内包する暴力性を排除してきた」と説明する。

ところで、非政治化がなされたというユダヤ教にその潜在的暴力性が見られ出してきた。エルサレムのヘブライ大学のエバ・イルス教授(社会学者)は独週刊誌シュピーゲルとのインタビューの中で、「イスラエル社会では今日、ユダヤ教の伝統的価値観が尊ばれてきた。イスラエルは自国の安全を最優先し、パレスチナ民族の痛みや苦悩に対して不感症となってきている。イスラエルの各家庭はほぼ一人の軍人を抱えている。イスラエル社会は非常に軍事的となってきた」と分析する。旧約聖書を読むと、ユダヤ民族の神は「妬む神」(出エジプト記20章)という。ユダヤ民族は過去、その神の願いに従って異教徒を打ち負かしてきた歴史を持っている。ちなみに、唯一神教の中でも、ユダヤ教だけは「宣教」をしない。なぜならば、彼らは神の選民だという意識があるからだ。

一方、キリスト教は中世時代、十字軍の遠征などを見てもわかるように、その暴力性を如何なく発揮してきたが、啓蒙思想などを体験し、暴力性を削除、政治と宗教の分割を実施してきた。しかし、キリスト教、特に世界に約12億人の信者を有するローマ・カトリック教会には、「イエスの教えを継承する唯一、普遍的なキリスト教会」という「教会論」が依然、強い。俗に言うと、「真理を独占している」という宣言だ。元ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が公表した「ドミヌス・イエズス」(2000年)の中にも記述されている。宗教の歴史は絶対的真理と他の絶対的真理との戦いだった。教義的には、カトリック教会は依然、真理を独占していると豪語し、異教徒に対して優位感を感じている。すなわち、カトリック教は教義的には依然、潜在的な暴力性を有しているといえるわけだ。そのカトリック教会はここにきて福音の再宣布を表明し、再び宣教に乗り出す気配を示してきている。北上するイスラム教の脅威を感じ出しているからだ。宣教に乗り出したキリスト教がイスラム教と正面衝突する危険性も排除できなくなってきた。

いずれにしても、アブラハムから派生したユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の3大唯一神教には教義的にも潜在的な暴力性がみられることは否定できないだろう。われわれは「妬む神」から脱し、「愛の神」を至急発見しなければならない。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年8月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。