リベラルの再生なくして日本の再生なし

宇佐美 典也

ども宇佐美です。

来週(8/28)新著「朝日新聞がなくなる日」(改めて過激なタイトルですね)が出版される予定なので、二週続けて告知こみのリベラルメディアに関するお話です。

朝日新聞がなくなる日 - “反権力ごっこ"とフェイクニュース -
新田 哲史:宇佐美 典也
ワニブックス
2017-08-28

 

さてこの本は私と新田哲史さんというB級感満載な二人の対談本なのですが、単純に話したことを文字にお越したというよりは、対談という形式でお互いの思想なり知識なりを盛り込んだ本になっていまして、論点を設定してロールプレイングしながらを議論を深めていくというようなことを意識しました。

またタイトルは「朝日新聞」に限定していますが、朝日新聞が中心ではありつつもリベラルメディア全般の在り方に関して議論しており、新田さんが新聞業界の元業界人として、またアゴラという保守よりメディアの運営者として、保守層の持つリベラル層に対する率直な疑念・不満を辛辣に投げかけて、それに対して私が元行政マンとして、また一朝日新聞の読者として「もうちょっと俯瞰してみればこういう見方もあるんじゃないの」と距離を置いた目線からツッコむという構成になっています。

出版社には申し訳ないのですが、率直に言って私としては、この種の本を書いてもあんまり売れるとは思っていませんし、自分の仕事にいい影響があるとも思っていません。内容も業界に関するある程度の知識を前提としたものですしね。それでもこういう本を書くことにしたのは、この一年くらい「リベラルメディアがおかしい」と強く感じているからでして、自分なりに「なぜリベラルメディアがおかしくなったのか、リベラルメディアはどうなっていくべきなのか」という問題意識を本としてまとめておくことで、リベラルメディアの中の人に届いてくれないかな、と思ったからです。

そういう意味ではこの本は、朝日新聞とか東京新聞とかリテラとかBuzzfeedとかリベラルメディアの人にこそ読んでほしいと個人的には思っています

。。。と、カッコつけていいましたが、「この本にヘイト要素は無い」と言えばやはり嘘になりまして、それなりに(許される範囲で?)下品に朝日新聞や民主党などを罵倒している部分もあります。ただだからこそ、本音を語れたというところもありまして、やっぱりぜひリベラルメデイアの関係者の方に読んでほしいと思います。。。。まぁ新田さんがどう考えているかはわかりませんが。。。

さて以下本書の概要の紹介です。全7章だてで、それぞれ以下のようなテーマについて論じています。
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<第一章      朝日新聞と反権力ごっこ>

→この章では、政権側を「権力」と認定して悪しきものとしそれに対抗する勢力を「反権力」と見なして正義のヒーロー仕立てで報じる、朝日新聞の記事構成の問題について述べています。具体的には、このような政治を権力と反権力と二分して考える思考自体が情報の取捨選択の目を曇らせ誤報を生む土壌となっていること、また「権力」を恣意的に定義することでその他の「反権力」とされた勢力が実質的に持つ権力に対する監視機能が弱くなること、などを指摘しています。加えて冷戦以後国際政治がますますパワーゲームの様相を呈し国連中心主義―護憲という朝日新聞の理論的支柱がぐらつき空洞化していく中で、それでも同社が形骸化しつつある「反権力」という構図に固執して無理やりに妄想含みでスキャンダルを作り出す姿を「反権力ごっこ」と揶揄し、そうした姿勢に現実の社会の行く末に対する不安に押しつぶされそうな若者世代が興ざめしていることを指摘しています。

<第二章    ビジネスとしての加計学園問題>

→この章ではビジネスとしての「反権力の構図」の変化という観点から加計学園問題の滑稽さを論じています。従来朝日新聞を中心とするリベラルメディアでは「旧き自民党とそれを支える官僚組織」を権力として認定し、彼らに対抗する「野党政治家とそれを支える草の根の市民活動家」たちを反権力と捉える「官僚政治の打破」の構図を反権力報道の基本として来ました。だからこそ自民党の政策の官僚依存や官僚の所管業界への天下りなどは利権の象徴として極めて否定的に論じられ、こうした構造を打破する民主党政権がかつて声高に主張した「政治主導」を全力でリベラルメディアは応援したわけです。ところがリベラルメディアが待望して誕生した民主党政権は当初から機能不全に陥り、最終的に官僚組織に政府運営を全面的に依存するようになるというあまりにも無残な結果に終わったため、もはや国民に「官僚政治打破」というキャッチフレーズが通じなくなってしまいました。そうした状況でビジネスとして新たな反権力の構図が求められるようになり、加計学園問題を通じて「独裁的安倍官邸VS正義の官僚前川」という構図が生まれたものの、その「正義の官僚」なるものはかつて自分たちが最も否定していた「行政の無謬性」を信奉する官僚の姿であった滑稽さを論じています。

<第三章 二重国籍問題と報道しない自由>

→この章では民進党蓮舫元代表の二重国籍問題などをケーススタディとしてリベラルメディアの都合よく情報を使い分ける体質を批判しています。蓮舫氏の二重国籍問題に関しては、ネット発でアゴラが追及していく中で、カウンターとしていわゆる人権派を自称するリベラルから「二重国籍は世界では当たり前の人権。国内でもたいした法律違反ではない。これを問題視するのは人種差別だ。」との声が諸方面から上がりました。

これに対して本章では、人権というのは自然に保護されるものではなく民主主義社会を構成する人々の合意としての法律があって初めて適切に保護されるもので、だからこそ「人権を守るためにも決められた法律は守るということが大前提になければならない」ということを指摘しています。またそうした観点から見たとき、反権力側の代表である蓮舫氏を擁護するためにリベラルメディアが「たいした法律違反ではない」という「反権力無罪」の論法や、「海外“では”当たり前」という存在するかわからない国際世論を全面に押し出して非難する論法を用いたのは不適切だったのではないかと疑問を投げかけています。またこうした論法での報道過程で、海外でも政治家の二重国籍がしばしば強く非難されている、という都合の悪い情報を積極的に報道しなかったリベラルメディアの報道姿勢を「報道しない自由」と揶揄し、そのような態度はネットが普及した今では不信感を買うだけと批判しています。

<第四章 政策論争を放棄した都議選報道>

→この章では都議選をケーススタディとして、リベラルメディアが「反権力」という構図にこだわるがあまり、報道が政局化し、政策ベースの議論が行われないことを批判しています。この点「新聞とてビジネスだから何を報道しようがないか自由ではないか」という意見に対して、日本では大手新聞は「民主主義の基盤」として本来独禁法上は許されない再販売価格維持制度が認められているほか特商法等の運用においても配慮がなされており、様々な面で公的優遇を受けていること、こうした大手新聞の準公的な取り扱いを考えるとそれに見合った義務を果たすことが求められることを指摘し、その義務とは国民に国の課題とその対策としての政策をベースとした報道を旨とすることではないかと問題提起しています。

他方で2017年の都議選ではこうした政策ベースの報道がほとんど行われず、「権力」としての安倍首相―自民党都連と「反権力」としての小池知事―都民ファーストの会の間の政局としての報道一色になってしまったことを批判し、他方都政における絶対的な「権力」であるはずの小池知事を「反権力」として描いたリベラルメディアの滑稽さを皮肉っています。

<第五章 昭和の体質を抜け出せない新聞業界>

→この章では朝日新聞という枠を超えて、新聞業界全体の体質について議論しています。具体的には、菅官房長官の記者会見で大暴れする東京新聞記者のいわゆる望月いそ子現象に絡んで、「記者が国民の代表なのではなく、国民の代表である政治家が記者会見の時間を設けているのではないか」という観点で議論して、個々の記者がスタンドプレーに走るのではなく記者会見としての質を全体最適として充実させることがメディアの役割ではないかと指摘しています。

また朝日新聞の記者のtwitterアカウントの発信内容や炎上事案をケーススタディとして、新聞業界における会社と記者の関係性の変化についても論じ、大手新聞社の記者の知的優越性を無条件に認める啓蒙主義は時代遅れとなっており、リベラルメデイアは個々の記者をオピニオンリーダーとして育成していくような方向性を重視していくべきではないかと提言しています。

<第六章 ゴシップ化するリベラルメディア>

→この章では、社会の変化の中でリベラルとしての使命を見失い保守勢力のスキャンダルを取り上げるゴシップ紙化しているリベラルメディアの在り方について議論しています。今日本では様々な課題が噴出しかけており、本来リベラルメディアとしてはそのような社会の歪みを取り上げ政策論争にまで昇華して、保守政権の在り方を正すのが役割であるにも関わらず、そうした本質的な課題と向き合わず政権の足を引っ張るという安易な方向に走っているのではないか、と批判しています。

その原因に関しては従来リベラルメディアは、問題だけを指摘しせいぜい他国の事例を紹介するまでで、解決策の立案は結局のところ官僚機構に期待するという「官僚依存体質」があったことを指摘しています。そのうえで、今となっては日本がある程度成熟した国となり、自分の未来は自分で考えて切り開く、という段階に来てこうした「問題を指摘して他国へ倣え」とする報道手法が通じなくなり、リベラルはリベラルとして政策立案にまで踏み出す必要性が出てきていることを指摘しています。

 

最終章となる第七章ではこれらの議論を踏まえてリベラルメディアの向かうべき方向やネットメディアの動向に関してざっくばらんに議論しています。

私として改めて強調したいことは、政府財政の現状や人口構成や政府機構の在り方を見るに、日本は「過去の延長線」から抜け出せずに、まさに今破滅に向かっている最中で、現在の自民党―保守政治が続く限りはこれを先送りできても、抜本的に立て直すことはできないということです。こうした中で、リベラルメディアがきちんと政策なり政治体制なりの刷新の議論を具体的な政策論として引っ張っていき改革を促していかなければ、日本の未来もまた暗いものになるであろうということです。

官僚というのはその性質上どうしても過去の延長線上の政策しか展開できない立場ですから、そこから脱して日本として新たな地平線を見出すにはリベラルの力はやはり不可欠なんだろうと思います。この本がそのための一助になれば私としては幸いです。ということで皆さま是非是非ご一読を

。。。といろいろ偉そうに書きましたが、結構がさつに好き勝手かつ無責任に下品に議論をしている本ではあるのですがね(笑)

ではでは今回はこの辺で


編集部より:このブログは「宇佐美典也のblog」2017年8月23日の記事を転載させていただきました(アイキャッチ画像は朝日新聞社サイトより引用)。オリジナル原稿を読みたい方は宇佐美典也のblogをご覧ください。