「常識」というワナにはまらないために

2017年08月24日 11:30

中国の大学で教えるようになって、意識的に使わなくなった言葉がある。それは「常識」である。常識は特定の社会空間で生まれる閉じた概念だ。「日本の常識は世界の非常識」などと言われたりもする。背負った文化が違えば、それぞれの常識にもズレが生ずる。だから、常識を押し付けているような誤解を生まないよう、あえて使うのを避けている。人間の思考を支える重要な土台だと思うからこそ、そうしている。

「客観」も特別な事情がない限り使わない。「客観的な報道」などというものは存在しない。あるのは正しいか間違っているか、正当、公正であるかないかである。合理的な説明がつかないとき、人は相手の反論を封じ込めるため、しばしば「常識」や「客観」といった奥の手を使う誘惑にかられる。疑問を差し挟むことを拒否するのが常識や客観のあり方だ。これは、あきらめ、自信のなさ、逃避のあらわれであり、禁じ手にもなる。

それに代わってより多く使うようになったのは、良心、健全、普遍、価値観、信仰といった言葉だ。是非や善悪の結論よりも、物事を考え、判断するための基準こそが大切だと考える。しかも、我々はある基準をもとに考えるのではなく、先に結論や直感を得てから、どうしてその結論や直感に達したか、をさかのぼって自問することがある。言い訳や釈明、口実探しでもあるわけだが、そうした反復を通じ、基準も明確に意識されることになる。そのプロセスにおいて、無意識に近い領域に横たわっているのが常識である。

常識は思考の安定剤だ。思考には常識の存在に対する敬意と信仰が不可欠だ。ただ、個別の「常識」を取り出してしまうと、根拠が合理的に説明できなくなる。あくまでローカルで、経験的で、直感的な性格のためだ。その隙間を埋めるように、合理精神によって立つ科学が登場する。三木清の『哲学入門』は、常識を経験に基づく実定的、固定的なものとし、科学は批判的で、進取の精神を持つものとする。

「常識はその理由を問うことなく、自明のものとして通用する、それは単なる断言であって探求ではない。常識に頼ることは安定を求めることである。それには懐疑がないが、科学には絶えず新たな懐疑がある。懐疑があって進歩があるのである。探求というのは問を徹底することであり、特に理由を問うことである」

「こうある」と悟るのが常識で、「どうしてそうなのか」を問うのが科学だというわけだ。だが科学そのものへの懐疑は不要なのか。科学は神ではない以上、科学の自律に無謬のルールを当てはめることはできない。その役割を果たすのは、信仰であり、それを土台とする常識なのではないか。常識と科学の相互補完関係を想像することによって、常識の存在も投影されると考えるべきだ。

常識の自明性については、脳の集合的な働きを解読したマーヴィン・ミンスキーの『心の社会(The Society of Mind)』が興味深い指摘をしている。大人は平気な顔をして、当たり前のように積み木をする。だが、瞬間的に木を認識し、その中の一つに手で触れ、他の障害物にぶつからないように運び、崩れないように積んでいく、そのプロセスをつかさどる脳の働きは奇跡に近い。子どものころは原初的な感覚を持っていても、大人になるとそれは「常識」になってしまう。ミンスキーの定義はこうだ。

「常識というのは単純なものではない。逆に常識は、苦しみの末に身についた、たくさんの実用的な考えからなる巨大な社会である。つまりこの社会は、部分的には法則とか規則性のような何かの原理に基づいてはいるが、大部分は、生涯を通じて学習されるルールや例外、性格的な特徴や傾向、平衡感覚、それに自己調整感覚などが折り重なったものなのである」

そして、常識が単純で、当たり前に見えてしまうのは、「いろいろな能力を初めて身につけた幼い頃のことに接することがなくなってしまっている」からだという。次々に取得される新しい技能が、古い能力にどんどん上書きされ、意識の底に沈んでしまうのだ。平衡感覚、自己調整感覚は、まさに積み木の作業において象徴的に表れている。常識と科学との緊張、バランスもまたこの平衡感覚から生まるとしなければならない。

ミンスキーは、常識を「だまされやすい言葉」だと警戒する。だがそこにはおびただしい数の経験や技能が織り込まれている。人は常識によって、すでに積み上げた木を再び手に取って積むということをしない。だが人工知能にとって、木をパターン認識したうえでに、さらにどの木を積むべきかを判断するのは至難だ。科学がまだ常識を解明できていないからこそ、常識の存在意義があるし、常識を使いたくなる誘惑も生まれる。もし論理によって説明が可能であれば、ことさら「常識」である必要はなくなる。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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