茨城県知事選挙与党勝利の政治史的裏側解説

八幡 和郎

6期の現職、橋本昌氏(右、茨城県サイト)を破った新人の大井川和彦氏(左、公式サイト)=編集部

東京都議会選挙や仙台市長選挙の惨敗で打撃を受けた自民党にとって、悪循環の歯止めになるか注目された茨城知事選挙は、無所属新人でマイクロソフトやドワンゴの役員もつとめたも経済産業官僚の大井川和彦氏(53)=自民が公明推薦=が49万票を獲得して、42万票の現職知事で最多の7選を目指した橋本昌氏(71)や共産と推薦候補を破って初当選を果たした。投票率は43.48%に達して、現職と共産推薦候補だけだった前回(31.74%)を上回った。

橋本氏は、下記の資料にもあるように、これまでも自民党県連と対立することが多く、前々回は対立候補を立てられた。前回は国政選挙と近接していたので、自主投票にまかせた。

ひとことでいえば、橋本氏は無風選挙が好まれた20世紀末の首長の生き残りだった。市町村や各種団体にきめ細かく配慮し、県議会議員にも政府にもつけいる隙を与えなかった。

ある意味でバランスは取れていたが、積極的な施策展開は臨めなかった。それに対して自民党は前々回は建設官僚を対抗馬に立てたが、今回は、民間経験がある若手経産官僚OBで新しさを打ち出せたのが成功の原因だ。

橋本氏は原発再稼働反対を終盤になって打ち出したが、いかにも、便宜主義的だった。これで、経産官僚は岐阜、北海道、三重、和歌山、広島、福岡、大分とともに8人になった。

(参考)「地方維新vs.土着権力」(八幡和郎・文春新書2012年)の要旨

茨城県では人口流出が続いて不振だったが、戦後になって鹿島のコンビナートや筑波学園都市が立地して一気に盛り返した。

この茨城県の政治は三つの点でなんとも特色的である。その第一は、公選になってからの知事がまだ四人目で石川県と並んで全国最少だということ。第二に、山口武平県会議長というとてつもない県会の実力者がいたこと。第三にかなり極端な世襲政治家の天国と言うことだ。

戦後に名知事といわれた岩上二郎は、旧制水戸高校から京都大学法学部を卒業した。戦後、瓜連町長となったが一念発起して米国ペパーダイン大学に留学し地方自治や社会福祉を学んだあと町長に復帰。キリスト教的理想主義者で、「農工両全」をスローガンに掲げた。

農民が慣れない大金を受け取ってそれを浪費し零落することが多いのを嘆き、県が主体となって、土地をいったん寄付させ、整備したのちに6割を戻し、4割を工業開発や都市整備に充て、農業の近代化と兼業先の確保を図るというプランを鹿島臨海工業地帯で実践した。余談だが、鹿嶋市という漢字表記になっているのは、市に昇格するときに佐賀県の鹿島市からの要求で、同じ名を避けるために国の策でこうなった。

その岩上のあとは、日本の統治下の朝鮮・京城(ソウル)で生まれた建設官僚で参議院議員だった竹内藤男がつとめた。筑波研究学園都市とつくば科学万博を成功させ、鹿島アントラーズの立ち上げをバックアップしてサッカーの発展にも寄与したし、「つくば市」の誕生など市町村合併にも成果を上げた。政治資金をゼネコンに頼り、収賄容疑で逮捕されたが、県勢発展への功績は大きい。

この茨城県では県議会選挙が統一地方選挙より一年早く行われている。1966年に議長選出をめぐる黒い霧事件で議会が解散したためで、同じ事情の東京都議会と、本土復帰になってからはじめて県議会議員選挙が行われた沖縄とが統一地方選挙と時期がずれているのである。

ちなみに、市町村議会議員選挙もはじめは同時だったが、市町村合併が吸収合併でなく対等合併された場合には、その時点で選挙が行われて時期がずれるので、こちらは統一地方選挙とずれていることが多い。

山口武平元県会議長は、広島県の大山広司と並び当選14回を数えた。自民党県連会長や全国都道府県議会議長会など歴任し、中央政界にも知己が多く、2006年に行われた最後の県会議員選挙の応援には麻生太郎や平沼赳夫がかけつけたほどだ。

下総地域の坂東市出身で1955年に県議となったが、上記の事件で起訴され有罪判決を受けたこともある。参議院議員選挙に出馬したが落選し県議会に復帰。1978年には県議としては異例の県連会長となった。

小泉総理とは直接に電話で連絡取り合う中だとか、陳情の時は国会議員より上座に座るなど数々の逸話を残した。2006年には85歳で県会議長、全国都道府県議会議長会会長をつとめて①国庫補助負担金の廃止・縮減、②税財源の移譲、③地方交付税の一体的な見直しという、いわゆる「三位一体改革」へ対処した。

だが、2009年の知事選挙では、現職の橋本昌に対抗して小幡政人元国土交通省次官を擁立したものの、市町村長や連合などが支持した橋本にダブル・スコアで敗れた。

このとき、民主党と県医師連盟が接近することとなり、知事選挙で橋本を支持するとともに総選挙でも民主党を支持した。その結果、総選挙では、厚生労働族のエースといわれた丹羽雄哉までが落選するなど自民党は惨敗する羽目になり、山口も2010年の県議会議員選挙で引退することになった。さらに、茨城県医師会長の原中勝征が民主党政権下で日本医師会長となって、自民党に大打撃となった。

その山口の盟友、というよりは弟分だったのが梶山静六(通商産業相大臣)。橋本龍太郎首相の後継を争ったときに、「凡人(小渕)、奇人(小泉)、軍人(梶山)の争い」と田中真紀子に評されたように陸軍航空学校出身。金丸信から「無事の橋本、平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」といわれた。健康を害さなかったら、森首相の後継を小泉と争っていい勝負だっただろう。

また、山口が参議院議員補欠選挙に出馬したときに負けた相手が、前議員の未亡人だった中村登美。その息子で収賄で実刑を受けて塀の中に入ったのちもしぶとき生き残る中村喜四郎とはそれこそ不倶戴天の敵同士だ。