AI時代のメディア論:「汝、自らを知れ」

秋季のメディア関連科目は「AI(人工知能)とメディア」をテーマに学生たちの中身の濃い議論をしたいと思う。AIはすでに我々の生活に組み込まれ、加速度的な発展をしている。いたずらに拒否反応を示すだけでは適切な指針は生まれない。AIの研究自体が人間を知ることの延長線上にあり、その成果を受け入れる我々もまた、改めて、古代ギリシャから問われ続けている「汝、自らを知れ」の大切さを知らされる。

メディアを厳密に定義することは不可能だし、意味がない。なぜかと言えば、それは絶えず生成し、変形し、消滅しているからだ。とらえようと手を伸ばしても、次の瞬間にはするりと逃げられてしまう。伝統的な新聞やテレビをメディアだと限定しては、歴史を語るしかなくなる。頭文字が大文字から小文字に変わったインターネット(internet)はすでに、新聞やテレビの延長だとみなすには、はるかに遠く離れてしまった。

液晶画面に映し出されたものが新聞なのかチャットなのか、テレビなのか映画なのか。あらゆる境界は取り払われ、従来の定義、概念はまったく通用しなくなる。目に見えないものが直接、脳を刺激し、思考や欲望をコントロールする。送り手、受け手の違いがあいまいになり、主体的であるか受動であるかも自覚されることはない。今では手放すことのできない携帯電話は、インターフェイスの多様化によってたちどころに消え得る。目の前にあるのが外の環境なのか、脳に映し出された映像なのか、その判別さえも不確かになる日が来るかもしれない。タコツボの議論を繰り返していては、永遠に出口は見えない。

メディアを単に道具や手段だとみるから、功利主義が目を曇らす。利用し、占有し、利権を奪おうとする戦術論にしかつながらない。リスクを誇張し、それによって新たな利益を得ようとする者たちが続々と生まれている。技術論に終わらせるのではなく、哲学、思想の息吹を与えなければ、未来を照らす学問にはならない。トランプ政権の誕生を、主流メディアの功罪だけで論じても意味をなさないのと同じだ。

人はこの世に生を受けてから、未知の世界に手を伸ばし、自分の外と、自分の中にある環境をつかもうとする。その営みすべてをメディアだとみなせばよい。人間の認識と環境との間に立ちふさがり、時には橋渡しをし、時には障害となるすべてのものがメディアとなる。だからメディアの原点は母親の愛にある。言語を獲得し、情報と経験を集積し、発信し、思考を重ねていく。そして、いかにして自分の価値観を確立するか、いかにして人生の意味を悟るか、という命題に立ち向かう。その過程のすべてにメディアが出現する。

だとすれば、人間の頭脳に近づこうとするAIこそ、最もホットなメディアだということになる。

我々は根源的な問いかけを迫られている。人は神ではない。有限性の中に生きている。二千数百年も前に、ソクラテスは「無知の知」を語った。同じころ、孔子は「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為す、これを知るなり」と説いた。あきらめたのではない。知を探求した末にたどりついた悟りなのだ。それをさらに進めた先に、仏教の「色即是空」がある。心をむなしくしたところに、真理は忽然として現れる。知ることをおろそかにした者は、おそれをも知ることなく、無明の煩悩に捕らわれ、傲慢に走る。

どんなに優れた頭脳も、目の前の井戸で溺れかかっている子どもを救うことはできない。子どもを救うのは、人が生まれながらに持っている惻隠の情、忍びざるの心があるためである。メディアによらない、生得の心である。これはに孟子が言っている。人の知はかくも弱々しい。人間が生まれながらにして持っている生物への愛=バイオフィリアもまた同じことだ。


「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」。ゴーギャンの問いかけは重い。誕生から老い、死に至るのはだれもが避けることのできない定めだ。無常があるからこそ、「超越(the Beyond)」の存在が必要となる。それが「無知の知」であり、信仰の源泉なのだ。

人の人たるゆえんは、疑問を抱き、問いを発することだ。教科書的な本の言い古された言葉を引用し、体裁を整えるだけのレポートを書いていた学生たちは、自分たちの作業がAIでも可能ではないのかと自問を迫られる。独自の、独立した思考とは何か。その核心に発問があることに気付くだろう。読書は著者に対する発問の繰り返しであり、自分自身との対話である。読書する自分と、それを眺めるもう一人の自分がいる。こうして知を探求し、相対的な思考を学んでいく。

なぜネット上ではなく、教室に集まるのか。そこには問いによって生まれる議論の場があるからだ。同じ時間と空間を共有することによって、血の通った小さな社会が生まれる。自由も権利も責任も、その社会の中で学ぶことができる。発言は自由だ。だが発言しているときに、他の者が携帯をいじっていたら、言論の自由は意味を持つだろうか。他者とのかかわりの中で、個人の尊厳は存在する。だとすれば無関心、冷淡は自由への軽視、冒涜だ。

愛のないところには、人のかかわりもなく、自由も尊厳も存在しない。メディアの原点に愛があることの意味がここにある。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。