習近平政権2期目の「新時代」的人事②

2017年10月27日 06:00

序列3位に抜擢された栗戦書氏(Wikipedia:編集部)

第19回党大会の常務委員選出で、習近平個人の色が強く表れた、最も人間臭い人事は、序列3位に栗戦書(67)が抜擢されたことである。習近平政権1期目の5年間は、総書記の秘書役である党中央弁公庁主任を務めた。習近平が総書記に就任すると同時に、貴州省党委書記から呼び寄せた人物だ。当時すでに62歳で政治局入り。破格の待遇だったが、とうとう最高指導部にまで引き立てた。一強の腕力だけではなく、恩人への徳が込められている。

党中央弁公庁主任は、総書記の補佐として党中央の秘書業務を統括する要職だ。指導者の護衛をする警衛局を指揮し、最高機密にも触れる。胡錦濤は総書記時代、同じく中国共産主義青年団(共青団)で実績を積んだ令計劃を党中央弁公庁主任として登用した。だが、令計劃は政権転覆クーデターに加担して失脚し、胡錦濤の権威は大きく失墜した。その失態の反省に立つ習近平が、栗戦書を同職に選んだことは、極めて強い信頼の表れだった。

二人の接点は35年前、隣接県の指導者同士だった機縁から始まる。1982年から3年間、習近平が最初の地方執政として河北省正定県に赴任した際、隣の無極県党委書記だったのが栗戦書だ。栗戦書は習近平より3歳年上で、当時、すでに地方で一定の経験を積んでおり、学歴は低いものの、習近平にとっては頼れる兄のようだった。常務委員入りの特別な計らいをみて、私は「恩人」に近い存在だったのではないかと感じた。

文化大革命が終わって間もないころ。河北省の僻地はまだ、開放改革政策とは無縁だった。文革の荒廃はあちこちに残っていた。貧しい農民たちを前に、二人は山積する難題に向き合った。慣れない片田舎の勤務で、栗戦書は習近平のよき相談役となった。

利害関係のない交友が得られたことは、二人にとって幸いだった。習近平は35年前の恩を忘れず、自分が栄達しても、常に栗戦書のメンツを立て続けた。総書記に就任する前年の2011年5月には、貴州省を視察し、栗戦書の功績をたたえている。この時点で習近平はすでに栗戦書を最側近の番頭役として登用する腹を決めていたに違いない。

一方、習近平の官僚人生は平坦ではなかった。

父親の習仲勲は、文化大革命後、自分の冤罪を晴らしてくれた胡耀邦元総書記に恩を感じ、1980年代後半以降、胡耀邦が学生による民主化デモへの対応で長老から批判され、窮地に陥ったときも、ただ一人立ち上がって胡耀邦を擁護し続けた。そのために鄧小平から疎んじられ、冷遇を受けた。晩年は北京に近寄ることができず、広東省深センで最期まで過ごした。鄧小平が死去した後の1999年10月1日、北京・天安門での建国50周年記念式典に招かれたのが、最後に参加した公式行事だった。

困難なときに手を差し伸べてくれる友人が真の友人である。二度にわたる政治闘争の被害に見舞われた習仲勲、習ファミリーには、そうした仲間が何人かいた。恩を忘れてはならない、というのが家訓となった。今回引退した前常務委員の張高麗副首相も、深セン市党委書記時代、習一家の面倒を見続け、恩を売ったことが、立身出世の背景にある。極めて人間臭い。

習仲勲への冷遇が始まったのは、ちょうど習近平は河北から福建へと異動した時期だ。本人も肩身の狭い思いをし、平身低頭を守ることを身につけた。栗戦書は任地が離れても、習近平を励まし続けた。習近平が感じているのはこうして絶えることのなかった友情への恩である。

習近平が恩義に感じ、それをずっと守り続けていることは、中国人社会においては極めて高い評価を受ける。特に、同士討ちが日常茶飯の政治の世界では、だれにでもできることではない。最高齢の栗戦書が、番頭役としてに習近平の傍らに寄り添っていることは、実に深い意味を持っている。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年10月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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