小西洋之参議院議員の「篠田はホロコースト否定論者と同じ」説を見て

篠田 英朗

小西洋之参議院議員(ツイッターより:編集部)

前回の私のブログ記事について、小西洋之参議院議員が批判していると聞いたので、見てみた。1月4日に二回にわたり、私を名指しで糾弾している記事があった。

安倍政権の解釈変更が「違憲でなく立憲主義に反しない」との主張は、科学的事実を無視する点で映画「否定と肯定」のホロコースト否定論者等と同質である。篠田氏は「教授」であるなら事実を直視すべきだ。・・・解釈変更が「違憲かつ立憲主義の破壊」である理由は憲法学者がそう言ってるからではない。この世に事実に基づく科学が存在するから、すなわち政権の合憲根拠が事実に反する虚偽だからである。篠田氏は暴論の前に東京外国語大学生のために違憲等の科学的証明を学んで頂きたい。

私は、「蓑田の足元にも及ばない」いわば三流「蓑田胸喜」(戦前の右翼)だ、と憲法学者の水島朝穂教授に糾弾されている。今度は小西参議院議員が、「ホロコースト否定論者」だ、と糾弾する。大変に時代がかった、大げさな事態に巻き込まれてしまったものだ。

「戦前の再来」「ナチスと同じ」・・・などのお馴染みすぎるレトリックは、教条的護憲主義者が、相手を選ばず、数十年にわたって使いまわしてきた凡庸な表現だ、と言ってるのが、私である。拙著『ほんとうの憲法』第3章では、なぜそうなってしまうのかを分析してみた。その私を否定するために、あえて「(三流)蓑田胸喜」だ、「ホロコースト否定論者」だ、という正面突破的なレトリックの糾弾を浴びせかける。大変に深刻な事態である。

拙著『ほんとうの憲法』では、小西議員が「芦部信喜」を知らないという理由で、国会で安倍首相を糾弾したエピソードについてふれた(ちなみに芦部とは、100万部を売るベストセラーになっており、司法試験・公務員試験受験者であれば必ず暗記する憲法学の基本書の著者)。私は、小西議員の名前はあげなかったが、このエピソードを、日本の知的閉塞状況の象徴的な例としてふれた。あるいは、そのため私は小西議員に糾弾されているのかもしれないが、もう少し本の中身に即した批判をいただきたいものである。

小西議員は、「集団的自衛権は違憲」という議論にも強い思いれがあり、そのうえでも私を「ホロコースト否定論者」と呼ぶようである。しかし拙著『集団的自衛権の思想史』もお読みいただいたうえで、それを「暴論」とお呼びになられているのであれば、凡庸なレトリックを抜きにして、しっかりと本の中身に即した批判をいただきたいものである。

それにしても小西議員の文章で非常に特徴的なのは、「科学」という言葉の使い方だ。自然科学だけでなく、社会科学や人文科学も含めた「科学」という語には、「学問」一般を指す意味があるが、現実を科学的に見ていることを強調して他者に対する知的優越性を誇る態度は、かつてマルクス主義者によく見られたものだ。昭和時代の日本で「科学的(wissenschaftlich)」という言葉がよく用いられたのは、史的唯物論に典型的に見られるように、表層的な上部構造の出来事だけにとらわれず、歴史の運動法則を捉えて社会の本質をとらえることが「科学的」態度だとされたからだ。

端的に言えば、小西議員の言葉遣いは、非常に「左翼っぽい」。だがそこに史的唯物論のような特殊な視点はあるだろうか。気になって小西議員が指定する論文を読んでみた。そして、驚いた。小西議員の議論は、むしろ過去の上部構造の虚偽意識を絶対化する議論である。

小西議員は、「科学的事実」を、1972年政府見解を出した当時の内閣法制局長官・吉国一郎氏が何を考えていたか、ということに還元する。吉国長官が1972年見解文書の最終決裁の権限を持っていた、と強調する。そこで、もし安倍内閣の立場が1972年の吉国長官の見解と違う場合には、「科学的事実」により、安倍内閣のほうが否定されなければならないとする。

意味不明だ。安倍首相自らが、安保法制は、1972年政府見解の「基本的な論理」は維持しているが、解釈の「一部変更」にはなる、と明言している。1972年見解との関係についても、「基本的な論理は維持するが一部変更」論について批判をするのでなければ、意味がないはずだ。それにもかかわらず、アベ首相の見解には1972年吉国一郎内閣法制局長官と違うところがある、などとあえて言ってみることに、いったい何の意味があるのだろうか。

そもそも仮に小西議員が強調するように、「安保法制は1972年政府見解の虚偽の読み替え」だとして、それで安保法制は「違憲」だとことになるのか。小西議員の「科学」とは、アベ首相は、1972年の内閣法制局長官に従っていないので、違憲論者であり、反立憲主義者だ、という主張のことなのだが、それはいったいいかなる意味で「科学」なのか。

小西議員の「科学」によれば、過去の(というか1972年という特定時点なのだが)内閣法制局長官の見解は、後世の総理大臣を含むすべての人々の考えを支配しなければならないようである。小西議員の文章は、内閣法制局長官の憲法解釈は憲法そのものと同じなので、過去(1972年)の内閣法制局長官の見解に少しでも違ってしまうことは自動的に「違憲」行為であり、「反立憲主義」行為になる、と主張しているようにしか読めない。 しかも小西議員によれば、これが「科学」であり、この「科学」に反することを言う者は、「ホロコースト否定論者」と同じなのだという。

それにしても「違憲」とか「反立憲主義」とか言うのであれば、しっかりと日本国憲法典の具体的な条項を参照し、自分自身の正しい憲法理解を提示して、そう言うべきではないだろうか。内閣や国会を凌駕する権威を内閣法制局長官が1972年においては持っており、2015年には失ったことの憲法上の根拠を示すべきではないだろうか。1972年内閣法制局長官の見解と違うから、違憲だ、反立憲主義だ、ホロコースト否定論者だ、というレベルの議論で、本当に小西議員は、自分自身の国会議員としての矜持を保てるのだろうか。

ところで私は、9条改憲の大きなメリットは、解釈を確定させ、不毛な神学論争による国力の疲弊に終止符を打つことにある、と考えている。しかし、小西議員は、仮に改憲がなされても、それは「騙され改憲」であり、違憲状態を前提にした改憲発議は無効なので、改憲も無効になる、と主張する。

国民投票をへてもなお解釈は確定されないとか、小西議員指定「科学」に反した内容だと国民投票は無効になる、とかという主張には、嘆息せざるを得ない。

1972年見解の最終決裁のオリジナル文書を入手した!と自慢をしていた小西議員の「科学」は、いずれにせよ、小西議員の憲法解釈の永久的な絶対的正しさを証明するらしい。「科学」に反する意見を持つ者は、「ホロコースト否定論者」として糾弾されなければならない、ということを証明するらしい。

小西議員は、テロ等準備罪法が成立したら亡命する、と述べたことにより、大きな話題を呼んだ人物でもある。ご本人は、現在では過去の自分の発言を否定されているようだ。総理大臣にどれだけの制約を課そうとも、小西議員ご自身は、過去の自分の発言にも拘束されることがないので、いずれは文部科学大臣にでもなられるおつもりだろうか。そして独自の「科学」概念を吹聴し、その「科学」に従わない「暴論」を言う国立大学教員を「ホロコースト否定論者」として糾弾するご予定だろうか。

物騒な世の中だ。どうやら小西議員によれば、亡命しなければならないのは、小西議員ご自身ではなく、私だということか。

ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判 (ちくま新書 1267)
篠田 英朗
筑摩書房
2017-07-05

編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年1月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。