ウーマン村本が知らない沖縄と中国の本当の関係(特別寄稿)

八幡 和郎

守礼門は中国皇帝への忠誠のシンボル

ウーマンラッシュアワー村本大輔氏の“妄言”から沖縄と中国の関係について議論が盛んだが。こんなことが起こるのも日本の教育のなかで国の歴史をきちんと教えていないからだ。もう日本史は社会科から外して公民教育の一環にでもしてもらわないとどしようもない。

日本人は弥生人と縄文人という先祖をもっているが、本土では中国人や韓国人と共通性が高い弥生人が優勢だ。しかし、弥生人がやってくる前から日本列島に住んでいた縄文人らしい特質をもつ人たちは、北海道や東北と南九州や南西諸島に多い。そういう意味では、沖縄の人は日本人のなかでもっとも中国人と縁遠い存在だ。

沖縄は日本列島でもっとも早く人が住み始めたのだが、現在の住人の主流は平安時代以降に鹿児島など南九州から移ってきたのでないかという説が有力だ。

沖縄で農業が盛んになりクニが生まれ始めたのは、鎌倉時代から室町時代になってだが、彼らと日本のつながりは盛んだったが非公式のものにとどまり、明帝国から使いがやってきて朝貢を勧め、冊封国としての琉球王国が成立した。

二千円札の図柄になっている「守礼門」は、中国からの使節を迎えて琉球国王となるべき世子が三跪九叩頭して迎える施設であり、「守礼之邦」という扁額にある銘は、中国の皇帝に忠実であることを意味するもので、「礼節が重んじられる国」などいう意味はまったくない。

とはいっても、近隣の日本との人的な行き来が圧倒的に多かったわけだし、江戸時代のはじめからは薩摩の島津氏の支配下に置かれたのだが、中国との冊封関係は維持された。しかし、欧米諸国がやってくると、中途半端な形式は植民地化の危険を生じさえることとなったので、明治12年(1879)の琉球処分で日本が完全併合し、いろいろ問題はあったが、日清戦争の結果、追認された。

沖縄の人たちが話してきた琉球言葉は、日本語と同系統の言葉である。言語学者は、祖日本語というべき同じ言葉から、弥生時代から平安時代のあいだのどこかで分かれたといっている。方言なのか別の言語なのかといえば、独立した言語として成立するためには、文法がしっかり整備されたり、辞書が編纂されたりすることが決め手だが、そこまでに至らないまま、明治時代に完全に日本に併合され、本土の言葉が普及した。

書き言葉としては、鎌倉時代に日本の仮名を使っての表記が始まり文学作品も生まれた。また、室町時代には、日本の諸勢力との間では仮名書きの文書のやりとりが、明帝国とは中国語での文書がやりとりされていた。

沖縄の人と稲作はどこから来たか

沖縄では旧石器時代にすでに人が住んでおり、1967年に発見された港川原人は我が国で最初に完全な形で確認された旧石器人の遺骨で、一万八千年ほど前の人類だ。

沖縄では本土の縄文時代から平安時代までをまとめて貝塚時代という。縄文時代的な狩猟採集文化が長く続き、早期(紀元前4600~紀元前2000年)、前期(紀元前2000~紀元前800年)、中期(紀元前800~紀元前200年)、後期(紀元前200~1100年)に分ける。

早期には海辺で漁業をしていていただけで、前期には小高い琉球石灰岩の崖下の洞窟に住んで漁業や狩猟をし、中期には台地に上がって土器に採集した木の実を蓄えたり初歩的な農業をして暮らし、後期には海岸の砂丘で網を使ったりする高度な漁業をしていた。

稲作については、11世紀ごろ以前には発見されません。柳田国男は、「中国で貨幣とされた宝貝を中国南部から宮古に求めにきた人々が伝え、稲作栽培が島伝いに日本列島を北上し伝えられた」といいましたが虚説だ。沖縄は珊瑚礁の島なので水の確保が難しく、台風も来るので、稲作が伝わっても定着しなかったと思われる。だいたい、平安時代の後期である10世紀から12世紀に南九州から伝わった稲作が盛んになるなど、農業社会へ変貌し始め、弥生時代が到来し、古墳時代から平安時代までは飛ばして、中世でもある「グスク(城)時代」に入った。

また、貝塚時代の沖縄がどのくら日本国家に服属していたのか、詳しいことは分からない。「続日本紀」には、714年に、種子島、屋久島、奄美大島、久米島、石垣島とおぼしき島から入貢してきたとある。鑑真和上は日本にくるときに阿児奈波島に漂着してから日本にやってきたが、これが沖縄である可能性が高い。

このころ奄美まではそれなりに日本の支配が及んでいたようだが、沖縄本島は必要に応じて影響力を及ぼせるといった程度だったと思われる。というよりは、このころは、人口もごくわずかだったので、それで十分で、律令制のコストもかかる地方組織は、それだけの経済価値がある地域にしか置かれなかったのである。

源為朝の子といわれる舜天王

琉球王国の正史の「中山世鑑」は、ヤマトにおける「日本書紀」のようなものだが、源頼朝の叔父で保元の乱で敗れて伊豆大島に流された源為朝が、本島北部の運天港に漂着し、大里按司という沖縄の有力者の娘と結婚して生まれた子が、琉球王家の始祖である舜天王(在位:1187~1237年)になったとしている。

源為朝かどうかは別として、南九州たりから、農業についての知識を持ったり、武芸に優れた個人や集団がやってきて支配者となったことが多かったという歴史的な事実を示唆している。

また、「中山世鑑」では、舜天王以前に、阿摩美久という神が天帝の指示に従って、南九州からやってきて建国したと言うことになっている。その系統が25代の間、続いたという神話的時代のあとに、源為朝の子である舜天王が王国を建てたとされている。

しかし、舜天王統は三世代で終わり(1187~1259年)、英祖王統の時代となる(1260~1359年)。このころ、仏教がヤマトの禅鑑という僧によって伝わり、仮名も使い始められた。

そして、察度王(在位:1350~1395年)という人物が現れ、これが、中山王国を建国し、1368年に中国で成立した明帝国の勧めに応じて朝貢し冊封されることになる(1372年)。このころ、南部や北部でも有力な王国が現れ、糸満市の大里にあった南山王国は1380年、今帰仁の北山王国は1383年にそれぞれ明から冊封された。

世界遺産になったグスクの時代

三国鼎立時代を終わらせたのは、南山王国の有力者だった佐敷按司の尚巴志である。尚巴志は鉄を本土から仕入れ、鉄の農具を分け与えることで信望を得たという。もともとは、本島の北西にある伊平屋島の出身で、ルーツは熊本県八代ともいわれる。

尚巴志は1406年に中山王武寧を滅ぼして父の尚思紹を王とし、1416年には北山王国を、自分が王となったあと1429年には南山王国を滅ぼして統一王国を実現した。これを第一尚氏の王統と言う。

しかし、内訌が絶えず、七代目の尚徳王を最後に金丸(尚円王)の第二尚氏王統にとってかわられた(1462年)。金丸は伊平屋島と同じく本島北西に浮かぶ伊是名島の出身である。

沖縄の歴史では、農耕社会が確立した12世紀ごろから島津に制圧された17世紀初めまでを古琉球時代、あるいはグスク時代という。グスクとは軍事的な城でもありますが、宗教的な御嶽(うたき=聖地、拝所)であり、人も住んでいた。

中国が船まで用意して琉球に朝貢させる

明帝国はその初期に積極的な海洋政策をとって、その一環として、中山、南山、北山の三国鼎立時代の沖縄にも入貢を進める使いがやってきた。船もすべて用意してくれるという結構な話だったのでこれに乗り、明帝国からの冊封と琉球王国からの朝貢という関係が始まった。

琉球側からも贈り物をもっていくが、その何倍もの価値の物をくれた。さらに、外交や行政の専門家がいないだろうと福建省人を350家族下賜した。彼らの子弟が北京に留学して官僚を独占していたのだが、のちには、不満が高まって土着の上流階級にも門戸が開かれた。いずれにせよ、明は官僚機構を福建人や留学組を通じてコントロールしていた。

琉球王国は、明帝国から厚遇され、非常にたくさんの朝貢船の派遣を特権的に許され、日本や東南アジア各地と中継貿易をして莫大な利益を上げた。

「万国津梁(世界の架け橋)」の時代といわれる琉球王国の全盛期だが、倭寇の跋扈で朝貢貿易の枠外の自由貿易が盛んとなり、また、倭寇をビジネスパートナーとする南蛮船が到来してより本格的な中継貿易を始めるに至って下火になっていった。

なお、中国人の地理観として琉球は福建省の先にあった。浙江省や江蘇省から東シナ海を横切る航海は常に危険が高いものだったからで、福建省からが安全だった。

古琉球時代のヤマトとの交流

ヤマトと琉球王国との関係は、室町幕府とも島津氏などとも書状や使節のやりとりはあったものの、インフォーマルなものだった。幕府では使節は朝貢使節として扱っていました。書状は仮名で書かれていたので、中国系の官僚たちは外交文書として扱わず、琉球側できちんと保存されることもなかった。

室町時代から戦国時代における中国の影響と日本の影響はまったく違う形で及ぼされたので、比較しようがない。
しかし、民衆レベルでの交流は圧倒的に日本、とくに南九州との方が分厚く、人の行き来も中国などとは比較にならないほど頻繁で、言葉もなんとか通じるわけであった。そもそも、日本の室町時代というのは、ヨーロッパの中世などと同じで、権力機構が多元的な時代だった。

この時期、薩摩の島津氏は徐々に日本と沖縄との交易権の独占を図った。
そして、1471年になると、幕府は島津氏の許可なく琉球と交易することを禁じている。幕府としても琉球は島津の勢力圏といった認識はあった。

また、貿易についても、琉球と中国の貿易といっても、琉球は仲介するだけで、日本の日本刀、漆、扇、漆器、屏風、銅などを中国に渡し、中国産の生糸、絹織物、薬などを日本側に輸出した。

琉球王朝の王城「首里城」(写真AC:編集部)

時代を読み誤った留学組中国人官僚の裏切り

関ヶ原の戦いから10年もたたない1609年に琉球王国は薩摩の島津氏に出兵され、なすところなく制圧され、以降、その支配下に置かれた。

島津氏は応仁の乱のころから沖縄を自分たちの勢力圏とみなしていたが、ほかの守護大名と同じく、薩摩・大隅・日向の三州では一族や地頭たちが群雄割拠で、それほど強い統一権力にはなっていなかった。

彼らが、ようやく、薩摩を統一できたのはザビエルがやってきた1549年のころで、このときの当主は島津貴久。大隅を制圧したのは、1572年の木崎原の戦いの勝利によってである。しかし、豊臣秀吉の攻撃を受けて1587年には降伏し、薩摩・大隅と日向南部に押し込められた

また、どこまでが領土か、沖縄や蝦夷のような十分に支配が及んでいないところと日本政府との関係はどういうものかとかいったことを、のちの黒船が来た時代ほどではないが、明確化する必要も出てきた。

そして、豊臣秀吉は大陸遠征にあたり、当然のことのように琉球にも軍役を課そうとした。琉球王国の中国人官僚はこれを明に密告する一方で、軍役は拒否はせずに半分だけ送り、半分は島津氏に肩代わりさせてしのぎ、それを踏み倒した。

ともかく、負担をいったん了承してしまえば、もはや、自分たちは明の冊封国だからとか、独立国だからと断る理屈はなくなっているからその場しのぎの方便で墓穴を掘ったわけだ。

また、德川幕府が漂着した琉球船の乗組員を救出送還したのにも聘礼の書状を出さなかった。聘礼の書状を出すと明の機嫌を損ねると中国人たちが主張したのだ。このあたりは、現実に沖縄は天下統一された日本の軍事的勢力圏になっており、朝鮮と違って明が救援することなど最初から無理だということを理解しなかったのだ。

とくに、中国系と留学組の官僚に外交を握られているから現実的な国益も考えなければ、自分たちが日本人と同じ民族だとかいうことに思いが及ばなかったのである。このとき政権を率いたのは謝名親方という中国系の人物で、南京の国子監という官僚養成校に7年間も留学していた根っからの中国絶対崇拝主義者だった。

正史である「球陽」には、「権臣謝名の言を信じ、遂に聘問の礼を失す」とあり、別記録は「(謝名親方が)子供の時から明の南京へ学問に渡り、年久しくして帰国したので、ヤマトの風を知らなかった」「こうなったのも謝名親方ひとりの失敗だし、佞臣だった」とある。

これに怒った幕府は、島津氏による琉球征伐を許可した。第三次朝鮮遠征をすべきという世論をかわすために幕府が琉球を標的にした側面もあった。

薩摩軍はほとんど抵抗らしい抵抗も受けずに本島北部に上陸し、あっという間に首里城を陥れ、国王尚寧は鹿児島に連れ去られた。尚寧は3年間もヤマトに抑留され、将軍に接見させられた。

また、15条の掟を承認した。そのなかには、中国への関係も薩摩の監督を受けることや、国内で不当な扱いを受けた者が薩摩へ訴えでることが可能なことが書いていた。

島津支配を中国が知らなかったのではない

島津氏は役人を常駐させて実質的な支配下に置いたが、同時に、王国は形の上で維持した。徳川家康は、琉球に日中貿易を実現する仲立ちを期待した。薩摩は琉球に明に対して交易を認めるように交渉させ、聞き入れないなら数万人の軍勢を福建省に送って軍事的に攻撃することまでほのめかした。しかも、明は薩摩の支配下に入ったことを怒ってそれまでの2年ごとの進貢を10年にいちどにすると嫌がらせをした。

結局、中国側もだいたい2年に1度の進貢を復活させ、島津氏としてはそれなりのメリットが確保できた。

また、島津氏は奄美群島を直接支配下に置いた。奄美については、古代からヤマトの影響がかなり及んでいたところにもかかわらず、日本が混乱期にあるときに、琉球王国が15世紀に併合した。奄美と沖縄の間にある与論島と沖永良部島はもともと北山王国に服従していたのを併合したが、ついで奄美大島に近い徳之島、さらに、1447年には奄美大島、1466年には喜界島が征服された。

そういう意味では、古くから沖縄の一部だったわけではない。島津氏は奄美を直轄領化したが、建前としては琉球王国の領域であることをやめたわけではなく、大島郡が設置されて大隅国に編入されたのは1879年の琉球処分のときである。奄美大島では18世紀になってサトウキビの生産が盛んになり、この専売制で得た資金は、薩摩藩が雄藩としてのし上がっていくことを支えた。

そして、明治維新まで、琉球国王は明や清に朝貢し皇帝から冊封を受けるが、一方で薩摩藩に支配され、江戸の将軍にも朝貢使節を送るという関係となった。島津氏に支配されている実態を中国側も知らなかったのではない。

沖縄にもペリーはやってきた

アヘン戦争が黒船が東シナ海に姿を現すようになると、琉球王国とは国際公法のなかでいかなる存在かということが問題になった。1844年にはフランスのアルクメーヌ号が来航して通商を要求した。

島津斉彬は琉球王国を開国させ、そこを通じて貿易をすることで、欧米諸国の開国要求をガス抜きさせられないかと言い出し、幕閣の実力者だった阿部正弘もそれに賛成した。

しかし、琉球王国では、そんなことをしたら、北京に対して島津に支配されていることを公式に認めざるを得なくなり、冊封体制が維持できなくなると反対した。もちろん、北京も実態は知っていたのが、建前が維持されている限りは目をつぶっていたが、薩摩との関係が公になればそれまでの関係を維持できなくなるというわけだ。

この構想は、フランスの政情が乱れて二月革命の騒乱につながる時期になったこともあって沙汰止みになったが、アメリカのペリー提督がサスケハナ号でやってきた(1853年)。

日本に来る前に那覇に立ち寄ったのだが、日本での交渉がうまくいかなかったら沖縄を占拠することも視野に入れていたようだ。

翌年にも再びやってきて来港し、結局、日米和親条約締結のあと琉球との条約締結を求め、薪水の提供、漂流民の救助、領事裁判権などを内容とする「琉米和親条約」が締結された。

薩摩藩の付庸国であり、清と特殊な関係にもある琉球王国が、国際法上の主体となれるのか、また、この条約に有効性があるのか微妙なところだった。

島津氏はこのあいまいな関係をフルに活用し、パリ万博には「薩摩・琉球」として出品を行った。しかし、そういう変則状態をいつまでも続けることは欧米の植民地にされる危険があった。

国際公法を味方につけて琉球王国を併合

アジアでは、大清帝国をめぐって、その領土について、本当に中国が国際公法上の義務を果たせるものなのか、また、冊封関係というのは、国際公法上のいかなる状況なのか整理する必要があった。

冊封関係にあったのは、朝鮮、ベトナム、琉球だった。清国政府では、冊封関係というものをなんらかの形で国際法上で位置づけたいと考えた。たとえば、併合してしまうとか、外交権のない保護国として扱うかである。しかし、清国は西洋の国をどうしたら納得させられるかなどまじめに研究したり工夫したりしなかったので、三つの冊封国ともに、清国との絆はあっさり断ち切られた。

つまり、ベトナムについては、清仏戦争の結果、清国は冊封関係を解消させられてしまい、琉球は日本への編入を日清戦争後に追認。そして、朝鮮についても、いろいろあったが、やはり下関条約でこれを解消することを清は受け入れた。