中国文明は韓国“素通り”で日本にやってきた

2018年01月19日 21:00

古代からの日本への大陸文明の流入について議論していると、韓国がまず輸入して、それを日本に輸出したという人が多い。いやそんなことはない、長江下流の江南地方から東シナ海を横切ってやってきたという人もいる。それから、江南地方から沖縄経由だという人もいる。

しかし、そんなものは、すべて古代の交通の実態を知らない人の戯言である。
東シナ海の風波は高い。しかも、風向きがかわる。だから、江南地方から沖縄、鹿児島、五島列島などに簡単に航海できるものではない。

鑑真和上が最終的に来日に成功したときは、江南地方から沖縄を経由しているが、これは難破した結果である。
沖縄と中国を航行するのは、幕末まで一貫して福建省ルートである。宮古や八重山経由、ないしは、近くに見ながら沖縄に入ってきた。

中国人の地理観として琉球は福建省の先にあった。浙江省や江蘇省から東シナ海を横切る航海は常に危険が高いものだったからで、福建省からだとそれほど危険ではなかった。それでも、航海に慣れていない中国人高官にとっては、比較的安全な福州航路ですら決死の思いで、海が荒れるとあらかじめ用意した棺桶に入って銀の釘を打ち付けるように命じて、その棺桶が漂着した地で釘の銀を売って葬ってもらう準備までしていたそうだ。

だから翁長知事が名誉市民になっているのも、台湾の対岸の福州市なのであって、上海方面との付き合いなどあったことがないのである。もちろん米が江南から沖縄にやってくるはずもない。

韓国から日本は文化を受け入れた歴史はない

『韓国と日本がわかる 最強の韓国史』(扶桑社新書)でも紹介したが、遣唐使は七世紀には半島の沿岸経由だったが、八世紀から五島列島と江南地方直行になった。新羅と日本の外交関係が緊張して仕方なしに危険承知で東シナ海を横断したのだが、10回ほどの派遣で問題なく往復できたのは一回だけだ。あとは、往復いずれかで難破した船が出たり、一度戻ったり、渤海経由にしたりしていた。

そこで、韓国人やそれに媚びて奉仕するアホな日本人は、中国文明が朝鮮半島に伝わり、それが日本に伝わったといいたがるのだが、それは違う。

邪馬台国への使いはソウルと平壌のあいだにあったとみられる帯方郡から沿岸を釜山付近まで船で行って日本に渡っている。その途中の未開地域(百済や新羅)など目もくれなかった。

そんななかで面白いのは、イネのDNA分析が進んで、日本の米は弥生時代から中国の華南・華中地方のものと同じ二つの系統のものであるのに対して、朝鮮半島ではそのうち一系統がわずかにみられるだけで、日本でもっとも受け入れられたもう一つの系統はまったくないということだ。

それに対して、朝鮮半島で栽培されていた米は、華北や遼東半島方面から入ってきたものだと言うことが明らかになってきた。つまり、日本の米は朝鮮半島の沿岸を経由してやって来た可能性が高い。港に立ち寄ったり、一時的に滞在したこともあっただろうが、それなら、日本の米でもっとも多い品種がなぜ朝鮮半島にないのかといえば、栽培を試みたが、気候が寒冷なのでうまくいかなかったのではないか。

そして、稲作農民たちは、南の海を渡ったところに温暖で水も豊富、人口も多くない島があると聞いてやって来た。そこが江南地方に近い気候だという噂は、交易に携わる人たちを通じて故郷の人にも知られることになり、大きな移民のうねりが始まったというのが、もっとも納得のいくストーリーだ。

この動きは戦国末期から秦漢期のことだ。そのあと、武帝の時代になって漢帝国は朝鮮半島北西部を編入して楽浪郡などを置いた。このルートで奴国王や卑弥呼と漢や魏が交流している。このときも、半島南部の未開地はほとんど蚊帳の外だ。

そのあと、今度は、大和朝廷が半島に支配を伸ばし、4世紀には南朝と直接交流したが、雄略天皇のときに中止している。そして、それから一世紀余りは、百済から大陸文明の採り入れをしている。

そこで、百済にお世話になったのだから、韓国に感謝しろという議論があるが、これもおかしい。

①百済は満州系の扶余人で言語も韓国と関係ない。そして、百済は唐(中国)と新羅(韓国の前身)に滅ぼされた日本の友好国で多くの遺民は日本人になった。

②百済から来た人で日本に文化や技術を伝えたのは漢民族ばかりだ。

③日本は百済には領土を割譲したり軍事援助を与えるなど見返りは払っているので恩恵を受けたわけでない。

そして、遣隋使・遣唐使が派遣されはじめ百済が滅びた後は中国から直接に文化は入っている。

それから、平安時代に朝廷が有力な家柄の人々、広い意味での貴族たちについて、自己申告で由来を届けさせ、それが「新撰姓氏禄」として残っているが、畿内では全体の3割ほどが、「諸蕃」、つまり日本が統一されたのちにやってきた帰化人の子孫と位置づけられているのだが、「漢」が163氏、「百済」が104氏、「高麗(高句麗)」が41氏、「新羅」が9氏、「任那」も9氏、さらに、それ以外(不明ということか)が117氏挙げられている。つまり、韓国の前身である新羅からの移民などほとんどなかったし、文化も新羅からたいしたものは入っていないのである。というのは、新羅はようやく6世紀から中国との直接交流が盛んになったので、それまで、ほとんど見るべき文化などなかったからだ。

*ただし、日本が半島に進出し、新羅が国らしくなった4世紀以前のことはよく分からない。新羅の建国に日本人がかかわり、歴代王の何人かも日本人であると新羅正史はしているのであるから、新羅を建国したのは日本人やそれに近い民族だった可能性もある。ただし、確定的なことはいえない。それに対して、日本の建国に新羅人がかかわったということはどこの史書にも民間伝承にも皆無であり、それを「もしかしたら」などというのは飛躍しすぎで非常識だ。

韓国と日本がわかる最強の韓国史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2017-12-24
アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑