徐福伝説に夢を見続ける中国の老記者㊤

2018年02月01日 06:00

日本国際貿易促進協会が発行する週刊紙『国際貿易』の1月30日号に、「私と徐福」と題する連載記事の第一回目が掲載された。私が仲介役を務めたので感慨深い。編集部の方々に感謝申し上げたい。


作者は、中国の改革開放初期、人民日報の東京特派員を務めた張雲方氏。日中の濃密な関係を間近に体験し、同紙を離れた後、谷牧副総理(当時)が主宰する国務院中日経済知識交流会秘書長に任命され、その後は国務院の発展研究センターに籍を置いた。現在は中国徐福研究会の会長である。

徐福については、若干の説明が必要かもしれない。秦の始皇帝が、不老長寿の薬を求め、3000人の若者と技術者を東海の地に送ったとの歴史的記述があり、徐福はその中の一人だった。歴史的事実として確定はしていないが、日本や韓国の各地には、徐福にまつわる神社や伝承が多く残されている。

以下は、作者が私に送ってきた原稿を三分割した初回分である。

『私と徐福』㊤ 中国徐福会会長 張雲方

私は韓国に生まれ、原籍は山東だった。子供のとき食卓の語り草として父母が語って聞かせる徐福の伝説や説話に飽きずに聞きほれたが、これは自分が物心ついたころの徐福との出会いだった。徐福を敬慕したのはその時からだった。両親が教えてくれた徐福の知識は驚くほど正確で、いまだ、こと徐福に関する研究で彼らが与えてくれた啓蒙を超えるものはなく、彼らは学者だったと思えるほどだ!

本格的に徐福に触れたのは、《人民日報》の日本駐在特派員を務めた20世紀70年代初頭だった。76年初春のある日、出版社の専務理事である友人の沖由也さんからお茶にお呼ばれし、ご著書『日本ピラミッドの謎』を頂いた。長年の研鑽の賜物である248ページほどの同著には、太古から今日まで歴史を俯瞰する優れた論述で溢れていた。日本古墳の前方後円説から説き起こし、中国の天円地方と日本古墳の前方後円形との内的関連を論証してみせた。沖先生はふと、「この伝承はいつから始まったのだろう」、と私に問いかけた。言葉に詰まった私をよそに、「徐福だったかも知れない」と言葉をつなぎ、そして、ご自分の考えを熱く語った。それに耳を傾け、歴史の饗宴をただで堪能させてもらった私だった。

1977年、沖先生のもう一冊の訳著——『神武天皇——徐福伝説の謎』が出版され、本の贈呈と同時に、日本古墳形成の謎はそろそろ論拠が出てくる頃だろう、と愉快そうに語られた。この本は徐福研究の大家衛挺生さんの力作で、私が初めて専門著述で徐福に接したこともあり、自分のこれまでの常識が揺さぶられるほど大きな衝突を受けた。

1978年秋たけなわのころ、鄧小平先生が訪日し、中日和平友好条約の交換公文の調印式に臨んだ。東京から関西訪問に向かう前日、東京日本記者クラブで記者会見を行った。席上、鄧小平先生は次のように述べた。「日本には古くから不老長寿の薬があると言われてきたが、私が来たのもそれを手に入れるためです。不老長寿の薬はないかもしれないが、日本の先進技術を是非持ち帰りたいと思っている」という。これは中国が改革開放、経済発展を鋭意進めるうえで名言になった。記者会見の場に立ち合った私は、徐福の中日両国の歴史における重みを改めてかみ締めた。日本政府から鄧小平先生に不老長寿の薬と銘打った植物——天台烏薬が贈られたのは、この時の訪日だった。

1980年、三期務めた特派員の生活にピリオドを打ち帰国する前に、弘瀬裕、沖由也、皆川郁夫、内藤進等20人近くの日本の友人は、東京ヒルトンホテルで送別会を開いてくれた。宴会を終えると、みんなが寄せ書きをしてくれた。沖先生のメッセージは「自称徐福子孫」だった。いつまでも脳裏に刻まれる言葉だった。(続)

(作者提供)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年1月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑