ブルームーンを主観的に「見る」ことの自覚

3月31日、ひと月に2回訪れる満月、いわゆるブルームーン(中国では「藍月亮」)の夜、あるクラスのグループチャットで「今夜の月は面白いよ」とアナウンスした。日々、勉強や各種活動に追われている学生たちは、概して周囲の自然現象に疎い。さりげない話題を振って、学生たちがどんな反応を示すのか興味があった。それを通じ、学生には、人間の外部環境に対する認識がいかに主観的であるかを知ってもらいたかった。授業で何度言ってもピンときていないように思えたからだ。

私は学内から見える満月の写真を次々に送った。

すると校外に出かけている複数の学生から、「今夜の月はとてもきれい」と何枚か写真が送られてきた。みなが「きれい(漂亮)」と感想を分かち合った。

私の目論見はどうもうまくいったようだ。そこで次の授業の冒頭、こんなふうに切り出してみた。

「君たちがみたあのブルームーンは、もちろん青くはなかったけれど、本当に”きれい”だったのだろうか」

キョトンとする学生たちに、こう続けた。

「私は次の夜の月も見たけど、前夜のブルームーンと同じようにしか見えなかった。みんなはきっとだれも見ていないでしょ。なぜ1日しか違わないのに、もう関心を失ってしまったのか……そんなにきれいなら、次の日また楽しんでもいいんじゃないのかな」

私が何を言おうとしているか、わかりかけた学生が、笑顔を見せ始めた。まずはメディアの場で、めったに見られないないブルームーンだと情報をインプットされた。それに加え、仲間と一緒に見ているという共感が加わり、もしかすると、ある学生はかつて見た満月の記憶まで動員し、またある学生は故郷にいる両親も同じ月を見ているのだと想像をふくらまし、そのうえで”きれい”だと感じたのではないか。

だとすると、私たちが「見る」とっている動作は、知識や感情、経験、記憶、想像など、個々人によって異なるさまざまな心の働きを動員し、対象に投影しながらある情報を受け取る行為だと言える。情報の重要な一つである日々のニュースもまた、私たちはこうして同じように接している。客観的な基準があるわけではなく、主観のぶつかり合いが議論を生み、公共の言論空間を作り出し、そこからいわゆる世論が生まれてくるのではないか。

また、携帯で画像を転送しあうのではなく、自分が時間と空間を持った風景の中に身を置き、周囲の空気を感じながら、自らの身体を使って見ることには特別の意味がある。情報を受ける際の身体性も無視できない。人は、月を見上げながら、同時に見上げている自分を記憶する。そこには身体がある。視覚だけでなく、耳に残る音や肌に触れる風、その場の匂いも同時に記憶される。もし食事の最中であれば、味覚さえも記憶の一部となる。情報との接触、受容には五感が総動員されるのである。

こう考えれば、色眼鏡とか、偏見とか、先入観とか、さらにはフィルターバブルに至るまで、そのこと自体の是非を論じることはあまり意味がない。むしろ主観のぶつかり合う議論の場、公共空間の構築こそが重要だとわかる。客観は議論を封じ込める絶対基準に化ける危険を持つ。主観を排除し、仮想の客観に付き従うだけでは、自由や選択を放棄することでしかない。その先にあるのは個人の主観が抹殺される全体主義だ。

私は月を見ながら、ひとりグラスを傾けた。月を盃に映し出し、自分の影を含め三人で”独酌”をした詩人の知恵を想いながら、至福の時を過ごした。以前、大学まで訪ねてきてくれた東京在住の中国の友人から、「月在花間」とのメッセージとともに、夜桜の合間からのぞく「藍月亮」の写真が送られてきた。

つくづく友はありがたい。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2018年4月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。