憲法記念日によせて:解釈改憲、自衛隊実質合憲に終止符を

陸自公式flickrより:編集部

私は改憲すべきとの立場だけれども、護憲派の人たちが盲信的だとか、お花畑に住んでいる人たち、などとは考えない。現行憲法をまっすぐに、文字通りに読めば、この憲法下での自衛隊は確かに違憲じゃないかと思うからだ。それを、戦後の自民党政権と、その時々の政権に対する忖度や現実社会への配慮で司法判断を遠慮してきた最高裁が、「なんとなくの解釈」によって「自衛隊はなんとなく合憲ぽい」としてきたのである。

今問われているのは、いつまでも自衛隊の正当性を「解釈」に拠ったままでいいんですか、ということだ。改憲の手続きをとらず解釈を変えることで実質的に改憲しようとする「解釈改憲」は、憲法典のあるべき姿として間違っている。本来はこのことは、左派勢力こそが最も声高に指摘すべきであるはずなのだ。この国に自衛隊が必要であることを認めるならば、それを文言としてはっきり明記すべきなのだと。

しかし彼らは「現行憲法下でも自衛隊は実質合憲なのだから改憲は必要ない」と主張して、改憲に反対する。解釈改憲が彼らの護憲の口実になっている。つまり、解釈改憲を肯定しているのだ。滑稽なことではないか。安保法制の集団的自衛権は解釈改憲だとして大騒ぎしているのに、肝心かなめの自衛隊については、解釈改憲を受け入れているのだ。

だいたい、その人たちの多くは、もともとは、自衛隊は違憲だと主張していたはずなのである。「左派よ、『自衛隊は違憲』に立ち返れ」とでも言いたいところだ。

そして自民党もまた、現行憲法が解釈につぐ解釈を行い、無理を重ねてきたことを素直に認めるべきだ。それは戦後日本の安全保障を担う政権与党としての失敗と誤りを認めることであるが、そこからの議論が必要である。

護憲派にとって日本国憲法は「教典」で、決して変えられるものではない。彼らにとって、現実に日本を取り巻く安全保障環境がどうあれ、教典は変えられない。聖書や仏教典を変えることができないように。そうした護憲派をもうまく丸め込めるように、我が国では「軍」ではなく「自衛隊」と呼び、「軍艦」ではなく「護衛艦」と呼び、「軍人」ではなく「自衛官」と呼んでいる。

しかしこんなものは言葉のまやかしにすぎない。まやかしを続けてきた結果、日本の国防安全保障政策にはあまりにも大きな齟齬が生じてしまった。レトリックと解釈を重ね無理をしてきた現行憲法のねじれを、一日も早く取り除いてやるべきである。

憲法9条の解釈は、無理な増築の上に次々と増築を繰り返してきた家のようなものだ。矛盾だらけで、誰もが混乱する。だから不毛な違憲論争が起きてしまう。憲法論議においては、日本はいまだに「戦後」が終わっていない。もう、このような不安定な状況に終止符を打つべきなのだ。