木村草太教授の『自衛隊と憲法』の問題点(2)国際法の軽視

篠田 英朗

木村氏『自衛隊と憲法』より:編集部

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木村草太教授の『自衛隊と憲法』では、第1章が「国際法と武力行使」と題された国際法の話になっている。それをあえて第1章に持ってきたのは、「集団安全保障や個別的自衛権・集団的自衛権の概念そのものを悪者扱いするのは妥当ではありません」とまず言っておきながら、すぐさま、「(それらを)正当化する根拠は、とても濫用されやすい、危険なものである点に注意が必要」という警告で留保するためだっただろう(37頁)。

木村教授は、回りくどいやり方をとるだけで、結局は、国際法を無視することを提唱する。

「国際法は、国内法と違って、それを強制執行する仕組みが未発達です」(37頁)、という典型的な「国内的類推(domestic analogy)」の言い方をする(参照拙稿『西部邁氏と日本における国際法の理解』)。そして次のように言って、国際法に関する章を結ぶ。

「国際法上の権利濫用を防ぐためには、各国で、武力行使を厳密にコントロールし、国際法違反を防ぐ憲法・法律、行政上の仕組み、司法システムを整えなくてはなりません。そこで、次に、日本国憲法の武力行使の統制についての規定を見て行きましょう。(37頁)

そう言ってから、木村教授は、もう国際法の話に戻ってくることはしない。延々と憲法は集団的自衛権を否定している、といった話をするだけである。これは少しおかしな態度ではないだろうか?

たとえば「表現の自由」が濫用されたと言って嘆く人が、「そこで私は自分自身に表現の自由を行使することを禁止する」と宣言し、一生涯無言で過ごすとしたら、どうだろう。周囲の人々は、「素晴らしい理想家だ」といって賞賛するだろうか。むしろ「なんか、あの人、勘違いしているよね」、と思うだけではないだろうか。権利の行使を禁じることでは、自分が濫用する可能性を滅することはできるかもしれないが、他人の濫用を防ぐことも、濫用に対抗することもできないし、そもそも権利を保障している自由な社会を発展させることはできない。

集団的自衛権の意義を認め、ただ濫用の危険性だけを心配するのであれば、正しい集団的自衛権の行使方法を実現するように国内法を整えるのが、当然の措置だ。集団的自衛権の行使を全て禁止するといった方法は、侵略行為への対抗手段を保障して国際法秩序を維持しようとする国際的な努力を無視することに等しい。

木村教授は、集団的自衛権は、「組織法」と「作用法」の二つの観点から、違憲だと述べる。前者が、憲法に授権規定があるか、後者が、憲法によって禁止されていないか、という審査だという。

後者をめぐる木村教授の議論は、「軍事権」に関する問題とあわせて。後に述べることにしたい。今回は、集団的自衛権を根拠づける規定が憲法にはない、という木村教授の主張について取り上げる。

木村教授は、憲法73条で列挙されている内閣の活動に、集団的自衛権が含まれることはない、と主張する。なぜなら集団的自衛権が、日本の領域内で「国内統治作用」として行われるものではないから、だという。

それではなぜ、外交官でもない国家公務員が海外の会議に出席するのは違憲にならないのか。ソマリアに基地を持って自衛隊が海賊対策を行うのは違憲にならないのか。なぜ木村教授は、国連PKOに参加する自衛隊員は、「外交関係を処理すること」をしているにすぎないといった大胆な主張をすることに躊躇しないのか。

なぜ木村教授は、たとえば、憲法には「海洋法」における「公海」上の「航行の自由」などを根拠づける規定がない、「公海」は憲法が授権することができない「国内統治作用」を超えたものだ、したがって「航行の自由」を行使することは違憲だ、などと主張しないのか?あるいは「航行の自由」は「国内統治作用」なのか?

もし木村教授が「国内統治作用ではありません」と宣言すると、憲法61条・73条に基づいて内閣が締結し、国会が批准した条約であっても、憲法98条2項にしたがって「誠実に遵守する」対象とはみなされなくなるというのは、どういう憲法理論なのか。

日本が主権回復を果たした際の1951年サンフランシスコ講和条約は、「日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認」している。同時に締結された日米安全保障条約も、日本が「国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認」した。翌年に日本の国会は国連憲章を承認し、日本の加盟申請は1956年に認められ、51条で集団的自衛権を定める国連憲章それ自体が、正式に日本国憲法98条2項が「誠実に遵守すること」を求める対象となった。

これらの条約は、全て憲法が定める正式な手続きにそって締結・批准され、国内統治作用の仕組みにそって、憲法が「誠実に遵守」することを求める対象となった。あとは国境を越えた活動になる場合に、管轄権を持つ国の同意を得て、国際法上の要件を満たせばよい。攻撃された国の同意があって初めて行使される集団的自衛権も、全く同じはずだ。

もっとも執行に関する手続きが法制化されていなければ、実際には内閣は執行することができない。自衛権に関する事柄だけでなく、あらゆる条約について、国内法上の執行手続き規定が必要とされる。憲法73条を適用するためだ。

現在の日本では、2015年安保法制で認められた範囲内でしか、集団的自衛権を行使できない。安保法制を超えた範囲が違憲だからというよりも、まずは執行手続きを定める通常法がないためである。逆に言えば、安保法制の範囲内の活動は、憲法73条1項の「法律を誠実に執行し、国務を総理する」という規定にもとづいて、内閣が執行する。

木村教授の場合、安保法制は違憲なので、73条1項は適用されないだろう。ところがなぜ憲法は集団的自衛権を認めないのかと言えば、73条に該当規定がないから、だという。論理の前に結論があるトートロジーだと言わざるを得ない。

なぜこのようなことが起こるのかというと、木村教授が初めの一歩から、「国際法上の権利濫用を防ぐため」、国際法上の権利を否定する、という錯綜した態度をとるからである。私に言わせれば、このような態度は、日本国憲法98条2項違反である。

<続く>


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年5月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。