木村草太教授の新刊『自衛隊と憲法』(晶文社)は、「憲法と自衛隊の関係について、適切に整理」し、「改憲論についても、ポイントを解説」したものだという(6-7頁)。確かに、他の木村教授による著作と比べると、穏便な文章になっている印象は受ける。それでも繰り返し「理性的・合理的な議論からは程遠い」「現在の憲法を理解しない人々」を、「有害無益」と断じていく姿勢は、随所で健在だ(6頁、143頁)。メディア関係者らのためのガイドブックであると紹介されるが、結局は木村教授の主張が一方的に提示される。
内容面で言うと、同書では、このブログですでに私が木村教授らの議論の問題点として指摘した諸点が列挙されている。私としても、あらためて問題点を整理してみるにはいい機会かもしれないとも思う。複数あるので、何度かに分けて書いていきたい。
まず取り上げたいのは、集団的自衛権の扱いである。木村教授は、数年前の安保法制成立の際の喧騒時に、『報道ステーション』などのメディアともかかわりながら、集団的自衛権違憲論を展開した人物である(拙稿『「『憲法判例百選』の解説者」という人々の支配』)。
だが木村教授は、「(2015年安保法制の)集団的自衛権の限定容認についても、合憲的に解釈する余地はあります」(115頁)とも述べる。ただし「存立危機事態条項は、憲法九条違反である以前に、そもそも、漠然、不明確ゆえに違憲」だともいう(125頁)。
集団的自衛権は、範疇として常に違憲だが、しかしときどきは合憲で、結局は法律が漠然としているから違憲だという。
私は二年前の拙著『集団的自衛権の思想史』で次のように書いたことがある。
木村草太・首都大学東京教授は、2014年に集団的自衛権行使を容認する閣議決定が出た際には、これは合憲だという主張をしていた。「憲法学者として七・一閣議決定の中身を見ると、『従来の解釈と完全に整合している』と読むことができる文章にはなっていると思います。公明党議員の方々が、与党協議でかなり頑張ったということでしょう」と述べ、「個別的自衛権と重なる範囲で、集団的自衛権の行使を認めたものであり」、「日本国憲法の枠内に収まっていると評価」していた。違憲であるはずの集団的自衛権も、個別的自衛権と重なっていれば合憲になるという立場であった。ところが、その木村教授は、長谷部教授が安保法案は違憲だと明言し始めた頃には、安保法案違憲論を声高に唱えるようになっていた。やがて、「たいていの憲法学者が憲法違反と言っていますし、国民の間でもそのことが理解され、『憲法違反だと思う』というような回答が世論調査で多数を占める状況になっています。したがって、法案が憲法違反であるという点は決着がつきました」、と断言するようになった。・・・
たとえば、個別的自衛権と集団的自衛権が重なる部分があり、その部分において、集団的自衛権の違憲性が優越せず、個別的自衛権の合憲性が優越する、という理論をとってみても、それ自体として新しい理論であり、議論の余地があったはずだ。少なくともそのような見解を、過去に日本政府が示した経緯はない。2003年7月8日に民主党の伊藤英成・衆議院議員は、小泉内閣に対して提出した「内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問主意書」において、個別的自衛権と集団的自衛権は重なるのか、重なる場合にはどちらが優越するのか、という質問を行っていた。これに対して同年7月15日に小泉純一郎・内閣総理大臣名で提出された「答弁書」は、個別的自衛権と集団的自衛権の「両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別される」、と返答していた。そのためこの答弁書においては、両者が重なる場合にはどうなるのか、という質問に対する回答はなされなかった。
木村教授によれば、個別的自衛権と集団的自衛権は「行使要件が異なる別々の権利」(33頁)だが、「個別的自衛権と重なる範囲で、集団的自衛権の行使を認め」ることができる。
木村教授は、「政府解釈や憲法体系を全くと言っていいほど理解していない」人々を嘆いている。その一方、木村教授は、個別的自衛権と集団的自衛権は「明確に区別される」という上記の政府答弁は無視して、二つは重なることができ、重なると「合憲的に解釈する余地」が生まれる、と主張する。
控えめに言って、わかりにくい主張である。どういうときに、どういう正当化事情で、個別的自衛権と集団的自衛権が重なり、どうして前者が優越して合憲となるのか。木村教授が学術論文を書いて丁寧に説明した気配はない。
そもそも一方が違憲であり、他方が合憲である二つの事柄は、どのようにして「重なる」ことができるのか?少なくとも個別的自衛権と「重なる」と集団的自衛権は合憲になりうるとすれば、どうやって集団的自衛権を一つの範疇として常に違憲だと断言できるのか?
木村教授は、安保法制の文言に関して、「存立危機事態とは、『外国への武力攻撃が、同時に、日本への武力攻撃の着手である事態』を意味すると理解するのが文言上は自然です」(123頁)、といったことを述べる。「重要な答弁がなされています。・・・公明党の山口那津男代表は、『武力攻撃事態等と存立危機事態が私はほとんど同じなのではないか、ほとんど重なるのではないかと思う』と指摘しました」(125頁)などとも述べる。
しかし「存立危機事態」や「武力攻撃事態等」といった概念は、あくまでも日本の国内法制上の概念である。それらが常に必ず集団的自衛権と個別的自衛権と同じものを指しているわけではない。
木村教授は、「存立危機事態」と「武力攻撃事態等」という国内法上の概念の「重なり」を、集団的自衛権と個別的自衛権という国際法上の概念の「重なり」と誤認しているのではないか?
集団的自衛権で説明するのか、個別的自衛権で説明するのかは、国際法の観点から決定すべき話であり、日本の憲法学者が「集団的自衛権容認よりも個別的自衛権拡大解釈で説明した方が好都合じゃないか」、と思うかどうかで決めていくべき話ではない。
そもそも憲法にそった説明であれば、まず憲法上の言語を用いて、違憲行為の性格を描写するべきである。そのうえで、国際法上の概念が、その合憲性/違憲性の範囲にどうかかわってくるかを、具体的に論じていくべきだろう。ある国際法概念に該当する行為は全て違憲だ、という結論を、憲法学者が先取りして結論づけるのは、おかしい。
歴史的に言えば、あるいは国際的に見れば、「個別的自衛権拡大解釈」こそが、圧倒的に危険な行為だ。日本の満州事変以降の「いつか来た道」は、個別的自衛権の拡大解釈から生まれた破綻への道だった。個別的自衛権の拡大が可能なら、集団的自衛権の容認より望ましい、というのは、日本の憲法学のガラパゴス性を如実に示す発想である。
「個別的または(or)集団的自衛権」を発動して合法的に行動する、と言うのが、国際的に標準的なやり方である。あとは両方に対して、国際法にしたがった制約をかけていけばいい。
ところが、日本の憲法学者は、どうしても一方を合憲、他方を違憲、と考えることに固執するので、議論が不必要なまでに著しく錯綜してくる。
木村教授の憲法13条を重視する議論にしたがえば、憲法13条の幸福追求権を根拠にした「自衛権」の発動は合憲だが、13条に反する「自衛権」の行使は違憲だ、と言うのが妥当なはずだ(拙稿:『憲法学者による9条と13条の倒錯的な理解:9条解釈論その6』)。ところがそれを強引に「個別的自衛権は合憲、集団的自衛権は違憲」、というフォーマットに言い換えて結論づけようとするから、無理が生じる。
<続く>
編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年5月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。