北朝鮮を理解するための戦後史解説

八幡 和郎

北朝鮮問題を理解するために歴史についての基礎知識が不可欠であることは言うまでもない。今回は『韓国と日本がわかる 最強の韓国史』(扶桑社新書)から関係部分を簡略化して紹介しておきたい。批判的ばかりでなく、彼らの発想が理解出来るように書いてある。


終戦ののち、アメリカは先発隊を総督府に送り、とりあえず原状維持を指示した上で、9月8日に上陸しました。

アメリカは信託統治をめざしていましたが、ソ連との話し合いはたちまち暗礁に乗り上げました。そこで、アメリカは国連主導で問題を解決しようとして、国連は1948年に総選挙を実施する事を決定しましたが、アメリカ軍の支配地域の方が人口も多く不利とみたソ連は拒否しました。

そこで南だけで選挙をすることになりましたが、南北分断につながるとみた人々は選挙の実施に反対し、済州島では民衆蜂起がありました。アメリカ軍は「暴徒7895人を射殺した」と発表しましたが、実際の使者はもっと多かったようです。

この時に日本に密入国した人も多いといわれます。金正恩の祖父は、済州島から戦前に移住して大阪にいましたが、密航船の運航をしていたといわれています。

選挙は多くの勢力がボイコットした中で、李承晩の勢力が勝利し、国号を大韓民国とし、李承晩を大統領に任命し、8月15日の記念式典で建国が宣言されました。

金日成(Wikipedia:編集部)

一方、38度線以北ではソ連が軍政を宣布しましたが、準備万端だったソ連は、行政権を金日成が率いる人民委員会に与え、民生府を設置して金日成を通してソ連の影響力を行使しました。金日成は、新羅王家の流れを汲む全州金氏に属し、平壌で生まれ(異説あり)、満州で育ちました。対日パルチザンに参加していましたが、1940年頃にソ連に移ってそこで本格的な指導者としての訓練を受けたようです。

1946年に臨時人民委員会の委員長に選ばれ土地改革で支持を広げました。1948年にトップにつき、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言しました。

こうして南北朝鮮に分かれたわけですが、最初は、李承晩政権の評判はさんざんで、武力統一が可能だと考えた金日成は、1950年6月25日の明け方に、150台の戦車を先頭に南進を始め、3日にしてソウルを占領しました。

不意を突かれたアメリカでしたが、国連安全保障理事会は韓国派兵、国連の総司令部設置及び国連旗の使用を決議し、管轄権をアメリカに委任しました。7月には東京に国連軍総司令部が設置され、マッカーサーが総司令官に任命され、韓国軍も国連軍に組み入れられました。

そして、9月には仁川上陸作戦に成功してソウルを奪回し、11月には鴨緑江の近くまで進出しました。しかし、ここで、毛沢東が義勇軍というかたちで介入しました。

1月4日には再びソウルを一時ですが陥落させましたので、マッカーサーは満州の主要都市に原爆を投下して中国を抑えることを主張しましたが、トルーマン大統領は同意せずマッカーサーを解任し、1951年10月25日にソ連の仲介で板門店停戦会談が行なわれ停戦が合意されました。

李承晩の時代には韓国経済は停滞し、間違いなく北の方が豊かでしたし、社会保障や教育も充実していました。ところが、1972年に南北対話が行われ、南北共同声明が出されたのですが、この際に行われた高官の極秘相互訪問で見聞きしたものは双方に衝撃を与えました。

南側は北の集団化による農村開発の進展に驚き、セマウル(新しい村)運動という農村改良運動で対抗して成功しました。逆に、北は南に日本との協力で浦項製鉄所のような近代工場ができているのに衝撃を受け、日本やドイツからのプラント輸入などをします。しかし、メンテナンスなどにコストをかけなかったので、あまり役に立たず、借金だけが残りました。日本輸出入銀行のようなところからの融資も焦げ付き、貿易保険で事故処理がされました。

北朝鮮経済についていうと、千里馬運動というのがあります。一言で言うと、常識外の生産性の向上をめざした物なのですが、いってみればオーバーペースで頑張った結果、へばってしまうのです。

たとえば、日量10万トンとされるプラントをフル稼働したら15万トンくらいは生産できるかも知れません。しかし、無理が生じて早く傷んでしまいます。あるいは、米を無理矢理に二期作すれば総収量は一時的には増えますが、地味は落ち、やがて土地改良しないと生産できなくなります。そういうふうに、とりあえず、一時的な成果は上げるが、あとが続かないというのが、あらゆる方面での北朝鮮の問題点です。

1983年のミャンマー訪問時の北朝鮮工作員によるラングーン爆弾テロ事件、ソウル五輪の開催を翌年に控えて1987年の金賢姫らが起こした大韓航空機爆破事件などがありましたが、北が南の順調な発展に焦った結果でした。

1991年には、北朝鮮と国際連合南北同時加盟を果たしました。韓国は金大中時代には、北朝鮮には「太陽政策」を展開し、2000年に平壌を訪問して金正日国防委員長との南北首脳会談を行い、ノーベル平和賞を受賞しましたが、会談実現のために多額の裏金を北朝鮮に送金したことがのちに判明しました。

すでに書いてきたように、1970年代までは、北朝鮮のほうが韓国より豊かでした。理由は、韓国が腐敗した資本主義だったにに対し、北が統制の取れた社会主義だったからです。

政治的にも、アメリカの支援による傀儡政権的な性格もないではなかった韓国に対して、北朝鮮は自立し、非同盟諸国のスター的な存在でした。

北朝鮮のマスゲーム(1998年撮影、Wikipedia=編集部)

世界のVIPをもてなすのも上手で、見事なマスゲームでの歓迎も有名でした。カンボジアのシアヌーク殿下も長年ここで亡命生活をしました。

日本との国交はありませんでしたが、1959年からは赤十字を仲介として、在日朝鮮人の「帰還事業」が始まりました。日本にいる北出身者は数パーセントといわれており、在日朝鮮人の主流は慶尚道出身者ですし、済州島なども多いのです。中部の人たちは京城へ働きに行けましたし、北の人は満州に行く人が多かったのです。

在日の人たちが日本にやってきたのは、強制連行とかでなく、生活のための出稼ぎや、チャンスを狙って来た人が普通です。戦後に密航して来た人もかなりいます。日本に渡ってきた人々は、相対的にはという事ですが、親日的な人が多かったとも言えますし、かなりは日本人になりきりたいと思っていたのです。

ところが、戦後、朝鮮籍の人は自動的に日本籍を失ってしまいました。気の毒なことに選択肢は与えられませんでした。

外地から兵隊さんや入植者が何百万人も帰ってきたのですから、朝鮮の人まで養っていけなかったし、ある意味で駐留軍に保護されて困ったことを起こす一部の人たちの扱いに困ったのも理由でした。

しかし、李承晩大統領は、在日同胞の帰国を歓迎しなかったし、彼らの韓国人としての教育にも熱心でありませんでした。

それに対して、金日成は、在日の人たちの教育を援助し、北への「帰還」も歓迎しました。これは、日本政府にとっても渡りに船でした。在日朝鮮人、それも、左翼的な北朝鮮シンパを引き取ってくれるというのですから悪いことは何もありません。

また、朝鮮語教育を公立校の放課後にするとかいうこともされていたのですが、朝鮮学校をつくってそちらに子供たちを移すというのもありがたいことでした。

当時は日本人でも高校や大学へ行ける人は限られていましたが、在日の人にとってはそれ以上に厳しい状況でした。もちろん、就職差別もありました。

そうしたときに、北に渡れば明るい未来が開けると思う人が多かったのはしごく当然でした。
「地上の天国」という嘘が宣伝されたといわれますが、当時は日本ですら社会福祉の水準は低く、社会主義国の福祉水準をうらやましく思っていたくらいですから、今日の感覚で考えるほどひどい嘘だったのではありません。

北へ帰ると、帰還者が半分日本人みたいなものだと差別されたこともあったようですが、進学できて社会的地位を得た人も多いし、誰よりも、金正恩の母親が帰国者であることは、周知のとおりです。彼女のおかげで、帰還者の地位も上がったとも言われます。

また、日本からの仕送りの大きな割合をピンハネされているということが批判の対象になりますが、そのまま渡したら、北朝鮮社会のなかで極端な富裕階級になってしまうという問題もあり、度が過ぎなければ所得税みたいなものともいえます。

しばしば、帰還事業そのものを誤りだったと批判する人がいますが、私はそれは間違いで、本来は李承晩が在日同胞の帰国や地位向上のためにすべきだったことをしないなかで、日本政府や北朝鮮にとってそういう道をつくったことが誤りだったとは思いませんし、それを推進していた人が悪気があってそうしたのでもないと思います。

しかし、李承晩が退場して朴正煕が登場してから、韓国があらゆる意味で先進国への着実な道を歩み始め、それを見た北朝鮮が焦って誤った方向へ走ったことで、北へ帰った人の大半にとって結果として不幸な選択になったことも確かです。

北朝鮮は、政治的な能力が非常に高い国です。しかも、アメリカと互角に渡り合うことで、朝鮮民族の歴史のなかで最高の栄光を手に入れたと言っても過言ではありません。

しかし、その成功の果実を喜んでいる反面、経済的に多くのものを失ってきました。たとえば、日韓国交回復のとき北朝鮮は賠償が含まれていないことを非難し、それは韓国内で圧倒的な支持を得て朴政権は倒れる寸前まで行きました。ところが、名を捨てて実を取ったこの選択の結果、韓国経済は漢江の奇跡を実現しました。

ここで焦った北朝鮮が起こしたのが、1987年の大韓航空機爆破事件です。しかも、実行犯のうち金賢姫が自決し損なって逮捕されました。

さらに、金賢姫が、拉致された田口八重子さんから日本語教育を受け、日本人になりすましていたことを証言したことで、拉致が疑いから確信に転換し、日本国内の親北勢力に致命的な打撃も与えました。

拉致の全容は明らかになっていませんが、ほぼ確実なのは、1976年に金正日が工作員の現地化教育のために外国人を積極的に拉致するよう指令し、東京学芸大学学生の藤田進さんが拉致されたのを皮切りに、横田めぐみさんなどが、翌年には田口さん、地村さん、蓮池さん、曽我さんら、そして1983年にウィーンから騙されて拉致された有本恵子さんらが被害にあったことです。

金賢姫の証言以降は、拉致問題の解決が日本人にとって最大の関心事になったのですが、そうしたころ、1990年に金丸訪朝団が平壌へ行きました。自民党と社会党合同でした。マスゲームで大歓迎され気持ちよくなったのか、金丸信は軽率にも戦後賠償(戦後に新たに生じた被害への補償)まで承知してしまいました。

これでは、南北分断にも日本の責任があることになり、絶対に日本は受けられない話でしたし、国民も拉致問題に触れなかったことに納得しませんでした。外務省は金丸氏の約束といえども無視するしかなく、1992年の協議でやや強引に拉致問題を持ち出したので、交渉は止まり、さらに、1994年の金日成の死で店晒しになりました。

この問題が再び動き出したのは、1997年の森喜朗や野中広務らの訪朝団が「行方不明者問題」ということで現実的なアプローチをしてからのことです。

日朝首脳会談(2002年、首相官邸サイト=編集部)

そして、それが下地となって2002年の小泉訪朝になります。このとき、小泉首相と金正日国防委員長のあいだで日朝平壌宣言が合意されました。

宣言は、(1) 日朝国交交渉を再開し,国交正常化を早期に実現させる、(2) 日本は過去の植民地支配を謝罪し,国交正常化後は経済協力を実施する、(3) 国際法を遵守し,互いの安全を脅かす行動をとらない、(4) 朝鮮半島の核・ミサイル問題については,対話での問題解決をはかることなどです。

また,北朝鮮は日本人拉致の事実を初めて公式に認めて5人の生存を認めるとともに、「8人死亡・4人未入国」とし謝罪しました。

しかし、このところが、小泉首相が判明した結果に動揺したのか、世論の反発を恐れたのか、今後の方針について国民にきちんとした説明をしなかったうえに、渡された遺骨が偽物であることが分かって、拉致を認めるという思い切った決断で劇的に状況が改善するはずが、かえって日朝国交回復のめどが立たなくなるという北朝鮮からすれば大失敗になってしまいました。

韓国と日本がわかる最強の韓国史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2017-12-24