保守も偽リベラルも教育勅語について無知すぎる

2018年10月05日 11:30

柴山昌彦文科相が就任早々の記者会見で、教育勅語について余計な発言をして物議を醸している。まず、発言を正確に再現するとこういうことだ。

記者) 大臣はご自身のツイッターで今年の8月17日に「私は戦後教育や憲法の在り方がバランスを欠いていたと感じています」とツイートされていますが、戦後教育や憲法の在り方がどのようにバランスを欠いていたと感じてらっしゃいますか。

大臣)…略

記者 関連してなんですけれども、教育勅語について、過去の文科大臣は中身は至極まっとうなことが書かれているといった発言をされているわけですけれども、大臣も同様のお考えなんでしょうか。

大臣) 教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形でですね、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのは、私は十分にあるという意味では普遍性を持っている部分が見て取れるのではないかというふうに思います。

記者) それはどの辺が今も十分に使えると考えてらっしゃいますか。

大臣) やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容についてですね、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというようにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなというようにも考えております。

私は、『教育勅語は軍国主義かを中立的に論じる』という投稿を2017年03月09日にしている。(その前に、『昭恵夫人名誉校長の学校“事件”を交通整理してみると』でも論じており、それを踏まえたものだ)

これは、よせばいいのに、稲田朋美防衛相が参院予算委員会で、教育勅語について「『日本が道義国家を目指すべきだ』という精神は取り戻すべきだ」と述べたことに関連したものだ。

そもそも、教育勅語は明治23年(1890年)に西洋化と伝統的価値観の調和をめざすために作成されたもので、その時代的背景を踏まえ妥当性があった。

しかし、すでに明治末期には教育の基本とするには時代遅れといわれ、西園寺文部大臣が国際性や女性の重視を加えた新しい勅語の制定を図り明治天皇の了承も得ていた。

それが、明治天皇の崩御で改正の機会を失い、逆に大正や昭和を通じて不磨の大典化されてしまって弊害も多かった。

教育勅語(Wikipedia:編集部)

したがって、これを、戦前のようなかたちで復活することは論外だが、中国の古典や老舗の家訓と同じで間違ったことが書いてあるわけでないので、私立学校などでどういう扱いをしようが勝手だし、たとえば、古典として教えるとか、戦前において道徳の基本とされていたことを、極度に肯定的とか否定的とかでなく、歴史として教えるのは差し替えないと思う。論語を教えて教育勅語はダメという理由がない。

しかし、たとえ、内容などをいかに改訂しようとも、教育勅語という形式のものを復活させるようなニュアンスがあってはいけないと思う。

教育勅語は、文明開化に一段落がついた明治23年(1890年)という時期において、それなりにもっともな意図で良いバランス感覚でまとめられ出された文書であるし、それは、そのままの形では時代がかわると扱うべきでないものとなったというだけだと思います。

それから、起草者である井上毅が最初から心配していたことだが、宗教のような色彩の儀式で扱われたりしたり、宗教家などを教育勅語を批判したとして弾圧するように使われましたのは残念なことだ。

とくに、創価学会の牧口常三郎初代会長が教育勅語で、忠と義を尽くすように求められていることについて、「天皇自らが忠を尽くせというのは,おかしいから削除したら」というような趣旨の主張をしたことも逮捕され、結果、獄死する原因になったということもあった(トータルに教育勅語を否定したということでない)。

こういう経緯を公明党と連立政権を組んでいる内閣の大臣が知らずに発言したとするなら軽率というしかない。

しかし、教育勅語の制定された経緯や内容は、軍国主義的であるとか、反民主主義的であるとかいうものでまったくないし、国家への忠誠について、19世紀末の世界的常識として求めるのは当然のことであって、そういう批判は反知性主義的だと思う。

おまけだが、「面従腹背」の前川喜平さんは、かつて、文科省・初等中等教育局長時代に「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念であるとするような指導を行うことは不適切である」としつつ「教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれておりまして、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられるというふうに考えております」と答弁している。

これについて、前川氏は、「教育勅語は戦後、排除・無効確認の決議が行われていて、これを教育の理念として使うことはできません、と。そして、学校の教材として使うことについても適切ではない」という答弁をしようと思ったら、下村文科相から修正を要求されて仕方なくしたのだといっている。

これについての私の意見は、上記に書いたように、教育勅語ないしその修正版をかつての不磨の大典とか、すべてに優先する国民道徳の憲法的存在だとして使うのは論外である。

しかし、日本人が半世紀にわたってそういうものだと扱ってきたものとして教材として使うことが不適切とはいえない。それだけのことであって、前川氏のいうこともおかしい。

ただし、(おそらく、前川氏と同じように)私は、過度に儒教的な教育勅語は好きでないし、(これについて前川氏の意見は知らないが)高校の漢文で儒教の古典を過度に取り上げることも嫌だと思っている。私はアンチ儒教である。

参考(著作より):「教育勅語の歴史についての私の認識」

明治20年頃というのは、近代日本にとってひとつの転換期でした。文明開化と近代国家の枠組みが明治22年の大日本国憲法発布などを区切りに、いちおう、できあがった時期です。

このころになると、岡倉天心らによって東京美術学校が設立されるとか、文化財、伝統芸能など、道徳面だけでなく広く伝統的なものを見直そうという機運が出てきました。また、新教育を受けた子が無学な親や兄を馬鹿にすると言ったことも起きて不満も高まりました。

伝統的な道徳や文化を大事にしろというのは、明治初年に島津久光や公家などが要求したものの、容れられなかったのですが、このころになると、いちおう文明開化を達成したのだから、耳を傾けてもいいということになり、明治天皇も熱心でした。

案文は、開明的な井上毅が元田永孚ら保守派の意見を踏まえつつ、欧米人から見て奇異でないようにぎりぎりの配慮をしたものでした。もちろん、伝統思想といっても、水戸学の影響が過度だとか、仏教思想が無視されたのも事実ですが、明治23年という時点で言えば、まずは穏当なものでしたし、国民に精神的な安定を与えた効用もたしかにありました。いってみれば、よくできた家訓みたいなものです。

ところが、明治末年になると、行き過ぎた道徳否定に歯止めをかける目的は達して逆に復古的に過ぎる印象が生じました。そこで、文部大臣西園寺公望が「国際的な責任」や「女子教育の重要性」を入れたいと提案し、天皇も了承したというのですが、明治天皇が崩御されたことから改正できないままになり、逆に、アンタッチャブルな扱いを受けるようになりました。

起草者である井上毅が最初から心配していたことですが、宗教のような色彩の儀式で扱われたりしたり、宗教家などを教育勅語を批判したとして弾圧するように使われましたのは残念なことです。

とくに、創価学会の牧口常三郎初代会長が教育勅語で、忠と義を尽くすように求められていることについて、「天皇自らが忠を尽くせというのは,おかしいから削除したら」というような趣旨の主張をしたことも逮捕され、結果、獄死する原因になったということもありました。(トータルに教育勅語を否定したということでない)

「基本的人権を損ない、国際信義に疑いを残す」として1948年に衆参両院で排除と失効確認が決議されたのだが、それは、占領軍の圧力によるものですし、また、国家全体としての扱いが問題だったのであって、内容がけしからんということにはただちになりません。

内容はあらゆる家訓や社訓や道徳家の言葉と同じで、そんなに間違っていることを書いているわけでありません。しかし、それを道徳の基本に据えるとなると、バランスが良いか、書き足りないものはないかが問われます。

もし、これをいま古文の時間にでも教えるなら、何の問題もないでしょう。古代中国の格言より気が利いてます。しかし、特別の意味を持つ道徳規範として教えるのは、明治末年に既に時代遅れと言われたものをどうしてまたということだと思います。また、仏教的な考え方が入っていないのが、伝統思想といえないという指摘もあります。

また、ミッション系の学校で、古代パレスティナの道徳律を教えたり暗誦させたりしたらダメだということも聞いたことありませんし、直接に政治的な色彩があるものでもありませんから、私学における扱いについて、とやかくいわねばならないものではありません。

以上が、中立的な観点に立った教育勅語論ですので、参考にしていただければ幸いです。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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