日韓対等という嘘のために日中対等は隠された

2018年10月26日 06:00

前川喜平が事務次官をしていただけあって文部科学省は、教科書で日本と中国や韓国との関係について嘘ばかり教えさせている。

たとえば、前近代の東アジアでは『冊封体制』(日本人学者の造語)という中国中心の国際秩序があって日本もその下にあったと教えられている。これは、媚中である以上に韓国の立場に配慮した捏造史観なのだ。

紫禁城(現故宮博物院:写真AC、編集部)

これに気がついたのは、中国の歴史教科書をいくら読んでも「冊封」ということが出てこず、韓国の歴史教科書でも3カ所ほど冊封という言葉はあっても「冊封体制」という言葉が皆無だったからだ。そして、実は冊封体制というのは、戦後になって媚中先史学者が発明した言葉だということを発見した。

どうしてこんなことをいうのかと考えて調べたら、結局のところ、韓国は新羅の統一以来、ずっと中国の従属国家だったので、日本と中国は対等の外交をしていたというと、論理的に破綻を来すからだと気がついた。

日本人は大陸文明が韓国を通じて日本に伝えられたとか、弥生人は半島人だと思い込まされている。小沢一郎氏など皇室は半島から来たとか韓国での講演で話した。

しかし、日本の稲作は中国の江南地方から来たもので半島とは関係ないことが明らかになっている。
古代における日中間の交通路は山東半島から半島沿岸経由だが、半島南部は未開地だったから、邪馬台国への魏の使節も中国領だった帯方郡(南北境界付近)から沿岸を素通りして日本に来ている。半島は日本に比べて文明化は遅いのである。

新羅王のなかには日本人が何人もいるとは韓国の「正史」に書いてある。それに対して皇室が半島から来たというのは、韓国の「正史」はおろか「伝承」にすらまったくない。

日本列島のクニと中国の交流は前漢の時代から始まってたが、後漢と交流した奴国や、魏と交流した邪馬台国も含めて大和朝廷の記憶に残っておらず外交として連続性がない。現代の日本国家につながる外交は、四世紀における「倭の五王」と中国南朝の交流である。このとき、日本は半島南部支配権を中国から認められたのである。

その後、大和朝廷は南朝との交流を断絶し、百済経由で文明を受け入れるほうが楽だという方針に転じたい。

そして、百済にはお世話になったが、その担い手は百済在住の漢人であって百済人はほぼ皆無だ。さらに、現在の韓国の前身である新羅は日本領の任那を侵略し友好国だった百済を唐が併合するのに協力した。のちに、その旧領をかすめ取ったのであるから百済と韓国というとの連続性は存在しない。韓国は新羅である。

一方、日本は北朝の隋の中国統一を機に国交を再開した。南朝と交流していた日本にとって、中華人民共和国を承認したのとおなじことだ。

遣隋使や遣唐使は朝貢の形はとっていたが、サラセン帝国などの使節と同じ扱いで、日本が唐に従属していたわけでも、天皇が皇帝の下位にあったわけでもない。長安の朝廷ではそうしないと皇帝に会えなかっただけだ。

一方、新羅は日本、高句麗、百済と対抗するために、唐の年号を使い、人名を中国風とし、皇帝に任命されて初めて王となった。

遣唐使の廃止からだいぶたって、足利義満が明と勘合貿易をして日本国王とされたことがある。この関係の解釈には論争があるが、中国でも義満の上に天皇がいることは知っていたのである。これは、倭寇取り締まりなども期待しての便宜的なものであり、朝鮮王国との関係と同じものではなかった。

にもかかわらず、日本が中国の冊封体制の下にあったと嘘をいうのは、つまるところ、韓国が中国に従属していたのに対して日本が対等の関係を維持していたというと、論理的に日韓が対等でなかったことが浮き彫りになるのを嫌ってのこと以外のなんでもない。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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