真似できないユニークな仕事をした知事10人

八幡 和郎

「47都道府県 政界地図」(啓文社)から、すでに「太田房江から小池百合子まで7人の女性知事列伝」というのを載せ、さらに「戦後の名知事10人の列伝(全国)」を掲載したが、こんどはユニークな仕事をした知事を10人集めた。

47都道府県政治地図
八幡和郎
啓文社書房
2018-10-18

 

 

友納武人(千葉)

千葉県の海岸は遠浅で海苔の養殖や潮干狩りには好適だったが港には適さなかった。だが、土木技術が進んだことで、絶好の埋め立て地として注目されるようになった。そのなかで、「開発大明神」と呼ばれたのが厚生省出身の友納武人だった。

県に資金がなくとも民間業者に安くで公有水面を払い下げて埋め立てさせるという、いまでいえば、民活方式による開発を進めた。この友納のもとで、工場だけでなく、幕張メッセやTDLの立地も行われるとともに、内陸でも船橋市周辺に全国有数の千葉ニュータウンが建設されるなど大規模な都市開発が進められた。毀誉褒貶も激しいが千葉県発展の最大功労者であることは間違いない。

岩上二郎(茨城)

那珂市サイトより

茨城県の岩上二郎は、旧制水戸高校から京都大学法学部を卒業した。戦後、瓜連町長となったが一念発起して米国ペパーダイン大学に留学し地方自治や社会福祉を学んだあと町長に復帰。キリスト教的理想主義者で、「農工両全」をスローガンに掲げた。

農民が慣れない大金を受け取ってそれを浪費し零落することが多いのを嘆き、県が主体となって、土地をいったん寄付させ、整備したのちに6割を戻し、4割を工業開発や都市整備に充て、農業の近代化と兼業先の確保を図るというプランを鹿島臨海工業地帯で実践した。

内山岩太郎(神奈川)

国立国会図書館サイトより

終戦直後の神奈川県で官選知事となり、引き続き公選知事を5期20年もつとめた外交官出身の内山岩太郎は、「民主主義とは人が集まって話し合いをすることで、そのためには集まれる施設が必要である」といい、いわゆる会館だけでなく、鎌倉近代美術館、図書館、音楽堂、シルク・センター、箱根観光センターなどハコモノ整備を積極的に図り、県民の文化水準もおおいに引き上げ「会館知事」といわれた。

近年ではハコモノ行政などと悪口のタネになるが、日本では伝統的に演説の習慣がなかったこともあって、集会場の整備も遅れていたのである。

武村正義(滋賀)

時事通信より引用

滋賀県の武村正義は、名古屋大学工学部に進んだが理工系には肌が合わないと退学。東京大学に入り直したが、学生なのに結婚したり、東京都庁に勤めたり紆余曲折を経たのち自治省入り。ドイツに留学ののち、埼玉県庁に出向したところで、八日市市市長選挙に出馬して当選。

前知事の積極的な公共事業がオイルショック後の税収減で行き詰まったのち、すでに補助金のついている公共事業の執行取りやめと補助金の返上、職員給与のカットなどで危機乗り切りに取り組むとともに、環境問題への取り組み、市民運動との連携など「地方の時代」を代表する知事としてのイメージ戦略を繰り広げたわけだが、あたりかまわず喧嘩を繰り広げたのではなく、手堅い政治手腕の裏付けがあった。

北川正恭(三重)

公式サイト

三重県知事の北川正恭は早稲田大学卒業後、短期間のサラリーマン生活ののち、27歳で県会議員に当選した根っからの政治家である。前任者の田川亮三は農林省出身で副知事を経験し、漁業組合や県教組の強い支援を受けていたが、各種団体の鉄の結束に嫌気がさしてきていた県民の心をとらえて勝利した。

北川は情報公開や政策評価システムの採用で、全国的にも改革派知事として注目された。経歴からいえば従来型の政治家である北川が、どうして改革派の代表となったのか不思議ともいわれたが、あまり難しく考えたりこだわったりすることなく、時代の求める新しいものは、どんどん取り入れるというネアカの精神がゆえであったと思う。

中川平太夫(福井)

繊維産業の衰退で苦境にあった福井県では、主力産業に原子力発電をあてた。当時の知事は中川平太夫といった。この時期、農協をバックにした候補が社会党や民社党と組んで正統保守の候補に勝つという労農連携型が各地で成功した。若狭の遠敷郡選出の県議をつとめ、農業団体を基盤とする中川もその方式で当選した。

中川はもともと必ずしも原発に無条件に賛成の立場でなかったが、逆にその立場を活用して、安全性への配慮を強く要請するとともに、電源地域へのメリットを要求し、この中川の巧みな政治力のお陰で県南は原発の恩恵をフルに受けることになった。

阪本勝(兵庫)

阪本は東京大学経済学部卒。教師、記者、文筆業の傍ら労農党の県議をつとめ、1942年には代議士、戦後は尼崎市長となった。「県民と燕は自由に来たれ」と登庁第一声を発し、知事室に市民が訪れるように求め文人知事として人気があった。県立の医科大学、農大を国立に移管したり、知事公舎の売却、社会福祉の充実などにつとめた。国体は中止論もあったが徹底した節減をした上で開催され、復興のシンボル的行事として県民の意識を高揚するのに絶大な効果があった。引退後に東京都知事に立候補したが敗北した。

橋本大二郎(高知)

ツイッターより

全国の知事で地元出身でない人がいつも3分の1くらいいる。といっても、県に出向していた官僚とか先祖などに地縁があるとかが主であるが、戦後の公選知事のなかでまったく何のゆかりもないのが、千葉の森田健作と高知の橋本大二郎だ。

与野党なれあいでの無風選挙を嫌って市民グループが担ぎ出したのが、自民党の有力者だった橋本龍太郎の弟で、NHK記者、とくに昭和天皇崩御前後の報道で知名度抜群だった橋本大二郎だった(1991年)。

官官接待の廃止、公設民営の高知工科大学の新設、国体の簡素化、森林環境税の創設、国の政策への積極的な提言など新しいスタイルと従来の常識への挑戦は、大きなうねりとなって、その後の改革知事たちの先駆となった。余談だが、官官接待の廃止は私が橋本の招きで高知へ出張した前の週の出来事で、私が対象第一号だと橋本から言われた。

しかし、不正融資事件で副知事らが逮捕されたり、最初の選挙の時に、当選後の公共事業利権の確保を条件に裏金が動き、それが選挙資金となっていたと議会の百条委員会が認定するなどスキャンダルが続出した。

田部長右衛門(島根)

中世から近世にかけての出雲山間部はたたら製鉄の中心地だった。「もののけ姫」の世界だ。そんなわけで、出雲・石見には巨大な山林地主がいた。その筆頭だったのが雲南市吉田の田部家である。

知事をつとめた田部長右衛門は、京都大学経済学部で学び、家業を継ぎ代議士もつとめた。「だんさん」と愛称され県民に広く敬愛された。作陶もてがける茶人であった。知事としてもセンスを県庁周辺地域の整備にいかんなく発揮した。菊竹清訓を主に起用して設計させた県立図書館、県立美術館などと松江城と官庁街が見事なハーモニーをかなでており、日本でもっとも美しい官庁街だ。

その田部は多くの政治家を育てたが、そのなかに竹下登や青木幹雄がいた。

黒木博(宮崎)

観光立県としての宮崎を創り上げたのが、宮崎交通の岩切章太郎と黒木博知事のコンビだ。黒木は宇都宮高等農林に学んだあと県庁入りし、副知事をつとめていた。「日向の大地に絵を描く」という発想のもと、あるものを売り出すだけでなく、沿道景観条例の制定、フェニックスの植樹など、人工的な景観美の創造も含めたものであることに特徴があった。

このほか、農業面では、ビニールハウスなど温暖な気候を活用した野菜の栽培や、早場米の出荷など宮崎の特長を生かした農業が発展した。1974年に黒木がラモン・マグサイサイ賞を受賞したのもそうした実績があってのことである。また、交通インフラの整備も進み、大阪方面へのフェリーの就航、宮崎空港の充実、九州自動車道が変則的ではあるが、熊本から県西部のえびのに入ることとなり、全国的な高速道路網と宮崎県は結びついたのである。

こうして、大きな足跡を残した黒木県政であったが、最後には、汚職の容疑をかけられての寂しい退陣となった。のちに、裁判で無罪とされ、汚名をすすぐことになったのだが、過度の長期政権の膿が出たといわれた。

47都道府県政治地図
八幡和郎
啓文社書房
2018-10-18