最近、刊行した「47都道府県 政界地図」(啓文社)では、すべての代議士の経歴や選挙区事情の紹介のほか、都道府県の成り立ち、政治風土について紹介しているが、昭和22年(1947年)に開始された知事公選で選ばれた300人あまりの知事についてかなり詳しく紹介している。
そのうち、女性知事については、すでに「太田房江から小池百合子まで7人の女性知事列伝」というのを載せたが、来年は統一地方選挙もあるので、3回にわたって、「名知事」「ユニーク知事」「トンデモ知事」を10人ずつ紹介してみよう。
ただし、ごく最近の知事は評価が定まらないので避けておく。また、有名知事は、長くやり過ぎる傾向があるので、最後の方は晩節を汚すことが多いが、そのあたりは、任期全体としての評価として理解いただきたい。
今回は、まず、「名知事」の部である。
三木行治(岡山)
岡山医科大学を卒業後に保健所での医師としての仕事のかたわら九州大学の法文学部で学んでいたところを注目され、厚生省の局長を経て知事に。「行政の科学化」を標榜し、「産業と教育と衛生の岡山県」をスローガンに掲げた。
三木知事のもとで、癌実態調査、アイバンクの設立、精神障害児施設の開設など医療福祉面では最先進県との評価を得たのはもちろんであるが、産業面でも倉敷市の水島にコンビナートを造成し、新産業都市の模範といわれた。東洋のノーベル賞といわれるラモン・マグサイサイ賞も受賞し、地方自治の歴史に残る名知事の一人である。
1962年の岡山国体では、桃太郎知事と愛称された三木知事のもと、「国体までに」を合い言葉に競技会場の整備や都市計画が推進され、「明るい県民運動」や「花いっぱい運動」も大いに盛り上がった。各競技の振興はもとより、ブラスバンドから合唱団まで飛躍的なレベルアップが実現したという。
た。
一生独身で過ごし、365日24時間働き詰めで、部下は大変だっただろうが、戦後になって公選で選ばれた300人あまりの知事のなかでも、最高の知事の一人だ。
金子正則(香川)
大平正芳首相の「田園都市国家構想」のもとになった「田園都市構想」の提唱者は当時の香川県知事であった金子正則だった。丸亀出身で裁判官となっていたが、戦後に帰郷して弁護士をしていたところを、副知事になった。
「田園都市」の発想は、金子が戦前に英国のハワードという人が書いた『明日の田園都市』という本に触発されたものだった。
金子の業績は、早明浦ダムの建設による大量の水利権の獲得、国の政策に頼らずに独自で進めた坂出のコンビナート、学力日本一の実現など数多いが、美しい県土の創成につとめたことでも知られる。
とくに若き日の丹下健三に委嘱して設計させた香川県庁(現旧館)は、コンクリート打ち放しで、五重塔をイメージしてデザインされたもので、全国でもっとも美しい官庁建築といって過言でない。
桑原幹根(愛知)
山梨県に生まれた桑原は、一高、東京大学を経て内務省入りし、日本・東京商工会議所専務や東北興業総裁を経て官選の愛知県知事となった。
桑原幹根は、愛知県の名知事であると言うだけでなく、さまざまな意味において、戦後生まれた公選知事の先駆的モデルとして広く手本とされた存在である。その業績のなかでも、木曽川の水を知多半島へ導く愛知用水を、公団を設立し世界銀行からの借款で実現したことなどは、当時としてスケールの大きい発想として称賛された。
伊勢湾台風ののちの復興を百年の計を念頭に置きながら前向きに進め、名古屋港の整備や新日鐵東海工場の立地を大胆な優遇策などを講じて進め産業構造の転換に成功し、トヨタに対して徹底したバックアップを行い県内の道路を整備し自動車王国を築いた、文化政策を重視し大都市圏にふさわしい基盤をつくった、戦前の先生たちの良さもうまあく生かしつつ高い教育水準を実現した、自治体外交にも熱心に取り組んだことなど枚挙にいとまがない。
平松守彦(大分)
村山富市元首相に代表される大分人の県民性のアンティテーゼとして登場し、それがゆえに成功したのが、「一村一品運動」で知られる平松守彦(前知事)だ。マレーシアのマハティール首相も信奉者の一人だったし、中国では改革開放に貢献した恩人の一人とすらいわれているなど国際的にも知名度が高い。
平松は城山三郎の小説「官僚たちの夏」の時代に主人公・風間のモデルとなった佐橋事務次官に中堅官僚として可愛がられ、とくにコンピューター産業の育成に手腕を振るった。コピーライター的な才能もあり、「コンピューター ソフトがなければただの箱」という川柳が当時話題になった。
その平松にとって、大きな平野がなく山がちで、スケールメリットを追求した産業育成ができない大分は好都合なキャンパスではなかった。
たとえばある町でメロンのよいものができても、「熊本メロン」のように全国市場を制覇するには量がない。そこで、苦肉の策として、それぞれの町や村の多種多様の産品を「一村一品運動」というかたちで売り出そうとした。
「そげんことをいうても、わしやよだきい」とすぐに投げやりになる傾向があるといわれる「ヨダキズム」の克服をと、あらゆる可能性に挑戦した。産業開発だけでなく、ワールドカップや立命館アジア大学を誘致したり、豊予海峡架橋と紀淡海峡に橋を架けて第二国土軸を建設するといった夢にも挑戦した。
山本敬三郎(静岡)
「地震知事」の異名をとったのが山本敬三郎である。伊豆半島賀茂郡の大地主で、旧制水戸高校、東京大学経済学部を経て三井物産ではたらいたあと県議、参議院議員となった。
「静岡は危険な地域だと公言するに等しい」という反対を押し切って、「大規模地震対策特別措置法」や「地震対策事業財政特別措置法」の制定を働きかけ、学校の耐震化、避難路整備、津波対策の海浜堤防強化策などのインフラ整備を展開した。「不人気に耐えるのが行政」という気骨ある知事だった。
東日本大震災のあとになってようやく滅多に起こらない災害への備えもすべきだと言われ出されているが、いまでも、富士山の噴火への対策などあまり真剣には論じられておらず、山本知事が地震対策に本気で取り組んだのは希有な例と言えよう。
小畑勇次郎(秋田)
北秋田郡早口村(現大館市)の出身で、旧制秋田中学を卒業し、村役場の書記を経て県職員となり頭角を現した。県の総務部長のときに前知事の後釜を土木部長だった池田徳治と争い敗れたが、秋田市長に選ばれ、市町村合併や官庁街移転に辣腕を振るって評価を高め、財政難などで立ちゆかなくなった池田県政のあとを引き継いだ。
知事としては、財政再建のために増税や職員数の思い切った削減など当時としてはかなり思い切った大鉈を揮った。「生涯教育」というコンセプトを最初に実現したのも小畑知事だし、国民体育大会では、ホテルが不足しているというので、ホームステイを活用したのも、ユニークなアイディアとして大好評だった。
新産業都市の指定も、工業開発は難しいのではないかという危惧を押し切って猛運動して受けることに成功し、日本鋼管の福山に続く工場の誘致に奔走していいところまではよかったのだが、石油ショックによって高度成長が終わり夢と消えた。
最大の事業は、八郎潟の干拓だった。ただ、完成したころには、減反が始まり、せっかく希望に燃えて入植した大潟町の農家にも作付けの制限がかかり、強い反対運動が繰り広げられた。
町村金吾(北海道)
北海道酪農の父といわれる町村金弥は、越前藩家老の本多氏がミニ城下町を営んでいた武生(越前市)で町奉行をしていた町村織之丞の子である。「少年よ大志を抱け」という名言で知られるクラーク博士がいた札幌農学校の二期生。
その次男である金五は東京大学法学部を卒業して内務省入り。特高警察を管轄する警保局長や警視総監などをつとめていたことから公職追放されたが、追放解除後、旧北海道一区から代議士になった。
そのころの知事は、革新系の田中敏文だったが、岸信介首相は代議士だった町村を全面的にバックアップして緻密な選挙戦を展開し当選させた。町村はストイックな内務官僚であり、公営ギャンブルの大部分を廃止するとか、自然保護に力を入れる、側近政治を排除するために、側近を次の移動ではあえて厳しいところに置くなど普通の政治家とはひと味違う姿勢を取った。一方、市町村に対してきめ細かい配慮を徹底し、多くの役場に知事の写真が飾られるようになったほどだった。北海道のミニ独立国気分と道庁の権威を示すエピソードだ。
畑和(埼玉)
美濃部都知事が誕生した直後に知事となった畑和は東京大学法学部を卒業した三代続きの弁護士で、社会党代議士だった。革新知事のなかでは異色の現実主義者で、実際的な妥協や配慮もいとわなかったし、迷惑施設についても必要性を辛抱強く説き、東北新幹線を通勤新線の建を条件に実現し、他の都県では頓挫した関東外環道路も工事を進めた。革新知事のなかで「有能」といわれた珍しい存在だった。
石破二朗(鳥取)
八頭郡郡家町(現八頭町)出身の建設省事務次官石破二朗は、東京大学法学部から内務省入りした大物官僚で、戦後の鳥取大火復興事業にも建設省都市計画局長として貢献した。
建設省人脈を生かして、大山有料道路、境港港整備、奥日野ダム建設、皆生海岸の護岸、国道九号線の整備、新産業都市の指定、中海干拓などに辣腕をふるい、このおかげで、県内のインフラはかなり急速に改善された。ただ、日本海側に共通していえることだが、工場誘致などは結果が出ず、その意味では、不満を残すこととなった。石破茂の父である。
梶原拓(岐阜)
建設官僚で都市局長から後継者含みの副知事となっていた。続々とスター知事が登場した1980年代に比し、90年代はバブル崩壊による経済不振もあって、一段落した感があり、スター知事不在の時代であったが、そのなかで、全国的にも話題になることが多い存在となった。
とくに熱心だったのが、首都機能移転問題である。東西日本の中間点で日本全体の人口重心でもあるあたりに、ワシントン型の政治都市をという正統派の考えにもっとも沿ったのが梶原による「東濃地域」についての提案であった。この提案は元々、リニア新幹線を前提とし、その通過予定地であることが強みだった。
このほか、梶原は大垣などを中心にIT産業の振興を図り、美濃焼の伝統を生かした工芸、文化などの振興にも積極的に取り組んだ。また、全国知事会の会長をつとめ、三位一体改革を実質的なものとするために、「闘う知事会」を標榜し、地方関係四団体の共同歩調による要求を実現した。