韓国の訴訟の原告は「徴用工」ではなかった

池田 信夫

韓国大法院が新日鉄住金に賠償を命じた判決について、日本政府は「旧民間人徴用工」という呼び名を改め、「朝鮮半島出身労働者」に統一した。この訴訟の原告が日本に来た1943年には、朝鮮人を「徴用」する制度がなかったからだ。1959年の外務省の資料によると、

元来国民徴用令は朝鮮人(当時はもちろん日本国民であつた)のみに限らず、日本国民全般を対象としたものであり、日本内地ではすでに1939年7月に施行されたが、朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく1944年9月に至つて、はじめて、朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施された

したがって1943年に日本に来た労働者は、徴用工ではなく募集だった。本来の徴用工は戦争末期の1年弱に徴用された労働者だが、その数は非常に少ない。

現在登録されている在日朝鮮人の総数は約61万であるが、最近、関係省の当局において、外国人登録票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは245人にすぎないことが明らかとなつた。

最高裁勝訴に沸く原告側(KBSより:編集部)

終戦時には朝鮮人は内地に約200万人いたので、徴用工は(1959年の245人の)4倍としても約1000人。「強制連行」が国家による強制的な動員という意味だとすると、その実態はこの程度の規模だったのだ。なお徴用の対象には女性は含まれていないので、慰安婦の「強制連行」はありえない。

ただ募集だけでは集まらない場合に、朝鮮総督府が斡旋して定員を充足させる官斡旋は1942年から行われていた。そういう広義の労務動員で日本に来た「移入半島人」は、終戦時に約32万人だった。今回の原告も官斡旋で来た可能性はあるが、これはあくまでも斡旋であって、労働者は自由意思で応募したのだ。

したがって「強制労働の苦痛についての賠償」を求めた原告の請求は、二重に誤っている。第一にそれは日本政府が強制労働させたものではなく、私企業の募集だった。第二に「未払い賃金」があるとしても、それについての個人請求権は1965年の日韓請求権協定で韓国政府に対する請求権となった。

この請求権は日韓基本条約で両国が合意して外交文書に明記され、盧武鉉政権も認めた。それを(当時の秘書室長だった)文在寅大統領が否定したら、韓国の国家としての連続性は失われ、今後日本とは条約を結べなくなるだろう。

朝鮮半島出身者の労働が苛酷なものだったことは事実である。高賃金を提示されて日本に来たら、炭鉱などの危険な現場に行かされて賃金も払ってもらえず、逃げようとしたらタコ部屋に閉じ込められた、という証言は私も聞いた。

日本は朝鮮半島を暴力的に支配したわけではないが、朝鮮人が内地で差別を受けたことは事実である。それは外交的には終わった問題だが、日本の誇れる歴史ではない。移民が話題になっている時期に、戦前の日本人が「移民」をどう扱ったかという歴史を振り返ることには意味があろう。