「日本国紀」での任那百済記述の混迷

2018年11月25日 11:30

古代史については、韓国が日本の教科書に任那の存在を否定するように要求するなど、国益にとって重要なテーマである。そこで、百田尚樹「日本後紀」でこれをどう扱うか注目していた。さぞ威勢のいいストーリー展開かと思いきや、そうでもなく、かなりユニークな内容だ。

さて、「日本国紀」でどう書いてあるかはあとにして、4世紀から6世紀における半島をめぐって、日中韓の資料ではどうなっているのか。

「日本書紀」では、神功皇太后による三韓征伐で新羅や百済を服属させたとしている。その後、新羅は服属したり反抗したりを繰り返し、百済は友好国で服属はしているが、したたかで信用できないような書き方だ。それ以外の、小国群は日本の領土化し、これを広い意味での任那と呼んでいる。

しかし、百済が4世紀にソウル付近から高句麗に追われたので、忠清南道の土地を与えて復興させた。さらに、のちに全羅道も割譲した。いわゆる任那四県である。また、新羅は任那を侵食し、やがて、これを滅ぼしたので、その回復を奈良時代まで求め続けている。また、百済は日本の支援にもかかわらず、新羅の支援も受けた唐によって滅亡させられた。

「日本書紀」では継体天皇までは、寿命が不自然に長く書かれており、絶対年代が分からなくなっている。たとえば、崇神天皇による本州中央部の統一が紀元前一世紀、神功皇太后による半島進出を3世紀初として非現実的だ。これをいかに補正するか、さまざまな提案がされているが、私は、各天皇の寿命を合理的に調整し、また、下記の中国や韓国の史書と整合性をとるという方法を採って、それぞれ、3世紀と4世紀のそれぞれ中盤としている。

韓国の「三国史記」は高麗によって編纂されたもので、新羅、高句麗、百済の歴史からなる。3つの国は紀元前後に群小国家のひとつとして創立されたが、3世紀ごろから成長し、高句麗は四世紀に中国の楽浪郡を滅ぼし大国家となり、半島南部では百済と新羅が中規模の国に成長した。4世紀から5世紀にかけて、高句麗と日本もこの地域に進出したことが書かれているが、従属的関係にあったことは曖昧にされている。一方、新羅の創立にあたって倭人が関与し、3つの王家のひとつの始祖である四代目の国王は、倭人であるとしている。

5世紀初めに建立された高句麗の好太王碑には、四世紀末に在位した王の治世に日本と交互に百済や新羅を支配下に置いたことが書かれている。3世紀から5世紀初期にかけて全羅道を中心に日本式の前方後円墳が多く建造されている。

中国の史書には、漢代から三国時代にかけては、平壌に楽浪郡が置かれて半島北西部を直轄地とし、ほかの地方の群小国家はそれに従っていたとされている。南北朝時代には百済や高句麗、遅れて新羅が朝貢したとされる一方、日本が進出して、4世紀後半には南朝に倭国が百済、新羅、その他の群小国家への宗主権を求め、百済以外についてはこれを認めたとある。とくに、倭王武が478年に出した上表文では大和朝廷による日本統一と半島進出についての詳しい経緯が書かれており、それは、日本書紀の記述とおおむね符合して日本書紀の信頼性を保証している。

以上の材料から、私の「韓国と日本がわかる最強の韓国史」「中国と日本がわかる最強の中国史 」「日本と世界がわかる 最強の日本史」(いずれも扶桑社新書)では、3世紀から倭人の半島進出はあったが、それは、九州の地方政権によるものだが、四世紀に成立した日本の統一国家は本格的な進出を試み、新羅や百済を従わせたが、この両国はいずれも支配地域の拡張を図った。百済は友好国でありつつけたが従順であったわけでなく、新羅はしばしば対立し独立を図った。ただし、群小国家に対しては、より強い支配を及ぼしてこれを任那と呼んだ。

しかし、百済がソウル付近の支配を失った後には、忠清南道を譲るように要請され、さらに、512年には全羅道の任那四県を譲らざるを得なくなり、そのことによって、任那地域の群小国家の信頼を失って、562年には新羅が支配下に置いた。その後は、日本は任那の奪還を図りつつ高句麗とも結んで百済を支援したが、新羅が唐に従属することを条件に支援を得て、百済や高句麗はいったん唐に併合された。その後、百済の故地や高句麗領の南部を新羅は唐から領有を認められた。

それでは、百田尚樹「日本国紀」はどう書いているのか。

まず、歴代天皇の実際の在位期間を特定していないので、全般的に曖昧になっている。応神天皇は新王朝であり、驚くべきことに、熊襲が大和朝廷を破ってとってかわった可能性も強いとしているし、四世紀後半における半島進出も九州の地方勢力による可能性が強いとしているので、この点では、日本書紀の記述との整合性は採りようもない。

また、日本書紀の記述の正しさを立証する証拠である倭の五王による南朝への遣使についての中国の正史の記述を、系図が正確に一致しないことや、王の名前が日本書紀に書かれているものと関連しないこと、日本書紀に交流したことは書いてあるが、詳細が書かれていないことなどを理由に信用できないと切り捨てている。つまり、日本の半島における支配のもっとも客観的に説得力ある証拠を全面否定しまっているのである。

その一方、韓国が任那の存在を否定していることや日本の教科書がそれに諂っていることは批判しているのだが、全般的に実態と経緯不明だが、日本書紀における半島の倭人による支配は間違いないというような説得力が薄いものになっている。

また、全羅道における前方後円墳の存在を理由に、百済を日本の植民地のような存在だったと主張している。日本書紀でも三国史記でも、百済に対する日本の強い影響が書かれているが、少なくとも植民地のようなものだったということは日本書紀にすら書かれておらず、上下関係は明白であっても独立国として扱われているので、この主張は不適切だ。

そもそも、全羅道における前方後円墳は、主としていわゆる512年に百済に日本から譲渡される以前の任那四県におけるものとみられ、百済の支配下で建造されたものとはいえないと見るのが普通だというのが致命的だ。

また、日本が任那の回復を奈良時代の後半になっても国家的な目標としていたことは、それ以前における日本の半島領有を裏付ける有力な材料なのだが、そうしたものには言及していない。いうまでもなく、日本書紀は、半島における日本の要求の正当化をそもそもの編纂の目的にしていたといっても過言でない。

百田氏の著作を作家の文学的作品とみれば別に問題はないのだが、「日本国紀」と仰々しく日本書紀を引き継ぐようなタイトルを標榜しているなら、上記のような古代の半島問題で古代から日本が主張してきた立場と著しく違う主張をとるのは意外だった。

私は、韓国(新羅の継承国家)は、日本固有の領土である任那を侵略し、友好国である百済や高句麗を唐が侵略することに荷担し、その後、その旧領を横取りし、百済の支配層のかなりは日本に亡命し日本人の重要な先祖の一部であるという認識であり、それを外交の場においても基本認識とすべきだと考えている。現代の韓国をもって百済の継承国家であると考える理由はないと思う。

また、大陸文明の需要において百済や新羅などがどういう役割を果たしたかだが、日本国紀にはほとんど記述がなくどういう評価をしているか分からない。

私は、まず、新羅の貢献はほとんどないと考えている。

一方、百済についてはかなり大きなものがあるが、その担い手は、百済在住の漢族であって、満州系の百済人や庶民のなかで一定の割合を占めていたかもしれない韓族(そういうものがあったかも疑問だが)の貢献はほとんどない。平安時代の新撰姓氏録などをみても、文化人や技術者を含む百済からの帰化人のほとんどは漢族であり、ついで、亡命者とみられる百済人が混じっているが、彼らは文明を伝えてくれたのではないから、少なくとも、百済からの文明伝来について韓国に感謝する必要はほとんどないなずなのである。

日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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