早川氏に再反論:日本国憲法は「みっともない憲法」である --- 高山 貴男

2019年01月10日 06:00

筆者の論考『「こんな人たち」と「みっともない憲法」の克服を』に対して早川忠孝氏から指摘があった。

日本国憲法は、決して「みっともない憲法」などではない(アゴラ:早川 忠孝)

具体的には文中に使用された「みっともない憲法」という部分に対してであり、氏はこの表現を根拠に安倍首相、改憲派を批判している。

時系列を整理するならば安倍首相の「みっともない憲法」発言は野党時代(2012年)のものである。あくまで野党政治家の発言に過ぎないのだから日本国憲法で国会議員に要請されている憲法尊重義務との関係については柔軟に解釈すべきである。

さて早川氏が反応した「みっともない憲法」についてだが議論をわかりやすくするためにも実際の発言について確認できる範囲内で引用してみよう。

日本国憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いてある。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと言っている。そして「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」(と書いてある)。

自分たちが専制や隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているわけではない。いじましいんですね。みっともない憲法ですよ、はっきり言って。それは、日本人が作ったんじゃないですからね。そんな憲法を持っている以上、外務省も、自分たちが発言するのを憲法上義務づけられていないんだから、国際社会に任せるんだから、精神がそうなってしまっているんですね。そこから変えていくっていうことが、私は大切だと思う。(1)

自民党サイトより:編集部

筆者なりに野党政治家・安倍晋三氏の考えを忖度してみれば、氏は日本国憲法の「主体性の放棄」に反発し「いじましい」とし「みっともない憲法」と評している。そしてこの「主体性の放棄」の淵源は「日本人が作ったんじゃない」ことに因るとしている。

戦後の政治家で日本の「主体性」を正面から論じたのは安倍首相の祖父たる岸信介ぐらいだろう。いわゆる「安保闘争」を経て改憲が政治的日程から外れると日本の「主体性」の議論は基本的になくなった。安全保障面では「対米依存」が常態化し我々日本人はそこに心理的屈折を抱きつつも大体において「対米依存=主体性の放棄」を受け入れた。

その理由は安全保障政策の最大の目的である「平和」が曲がりなりにも確保できたからに他ならない。

ここで注意が必要なのは「主体性の放棄」はただ日本が一方的に宣言すれば成立するものではない。日本が自主防衛を怠った分を誰かが補ければならず、戦後日本では在日米軍が補った。また「対米依存」はアメリカの了解が前提であることを忘れてはならない。

この辺りは別に安全保障の専門家でなくても無党派層を含めたかなりの日本人が理解していることではないだろうか。一方で理解しつつもそれを「公の場」で積極的に発言することに抵抗を感じているのではないだろうか。

相互尊重のディベート文化がない日本社会では「公の場」で発言をするためには相当な準備を要する。「議論の破壊者」がいる場合、彼(女)らに最大限の注意を払わなければならないし、最悪「議論のための議論」になり意図した発言ができなくなってしまう。

雑駁に言えば戦後、平和論議で起きたことはこのようなことではないだろうか。「自分の国は自分で守るべきだ」と主張すればたちどころに「軍国主義者」「右翼」のレッテルを貼られて攻撃にさらされ委縮し自己主張を控えてしまう。

「議論の破壊者」を恐れるあまりに「日米同盟の維持」という現状維持的政策をただただ展開し、結果的に「対米依存」の議論は雲散霧消してしまい、それどころかこれが「快適」だったため「対米依存」を「水や空気」のごとく受け入れてしまったのが戦後日本ではないか。

「対米依存」を覆い隠すための「9条スゴイ」

戦後日本の平和を論ずるにあたって日本国憲法に触れない者はいないだろう。そして同じく日米同盟に触れない者もいないと思われる。

憲法学者は声高に主張しないけれど彼(女)らのほとんどが護憲派であり戦後日本の平和も日本国憲法があったからこそ、もっと言えば憲法9条があったからこそという立場である。

しかし憲法学者も日米同盟を無視しているわけではない。むしろ相当に意識している。

国際政治学者の篠田英郎氏によれば、戦後の平和論議は「顕教と密教」の関係であり世論は憲法学者が唱える「憲法9条による平和」という「顕教」を信じ、保守政治家・官僚・安全保障の専門家は「抑止(=同盟)による平和」という「密教」を論じた。(2)

そして日本国憲法、日米同盟の双方とも「国体」と評せるほど強固なものであり「顕教と密教」の関係に基づけば前者が「表の国体」であり後者が「裏の国体」であった。これを篠田氏は「戦後日本の国体」と見事に表現している。(3)

「表の国体」を担う憲法学者とそれを支持する護憲派は「裏の国体」を覆い隠すべく日本国憲法の「先進性」を殊更、強調している。「憲法9条は人類の理想だ」の類の表現は護憲関係の著作で見つけることはそれほど難しくない。「日本スゴイ」ならぬ「9条スゴイ」と言ったところだろうか。

そして「裏の国体」を覆い隠すこの「9条スゴイ」は「対米依存」を覆い隠す行為でもある。

だから護憲運動は単なる平和運動ではない。我々日本人の「主体性の放棄」を覆い隠す運動でもある。

戦後、政治の世界でも護憲派は国会議席数で「改憲阻止数」を大体において確保しまた「全会一致」を尊ぶ日本型意思決定を逆手にとって議論を破壊し国会審議も止めてきた。現在も「議論の破壊」という点は残っている。

日本国憲法は安全保障論議、もっと言えば平和論議を極端に狭めてしまった。そしてその結果「対米依存」の克服の議論も消滅させ「主体性の放棄」を招いたと言える。

日本国憲法は「みっともない憲法」である

日本国憲法が論理必然的に「主体性の放棄」を招くとは思わないが、かつての「敵国」たるアメリカが制定したことを考えれば元々そういった性質を多分に含んでいたのだろう。

そして日本国憲法が制定され年月を重ねているうちにその部分が肥大化し日本国憲法そのものの性質になってしまったのではないだろうか。

この観点で言えば2012年時点で野党政治家・安倍晋三氏が日本国憲法を「みっともない憲法」と評したことは誤りとは言えない。

現在では「主体性の放棄」に加えて「対話」より「対決」を優先する「こんな人たち」の国政干渉の危険性すら招いている。仮定の話だが立憲民主党が政権与党になった場合、同党を介して「こんな人たち」が政権与党の一員になることも十分にあり得る。

要するに日本国憲法は「主体性の放棄」のみならず民主主義の「好まざる人物」を招くものに成り下がったのである。

これらを踏まえて言えば日本国憲法は「みっともない憲法」である。より正確に言えば「みっともない憲法」になってしまったのである。

今、我々日本人に必要なことはこの「みっともない憲法」を改正(=9条2項削除)し「9条の呪縛」から解放された実際的な平和論議を行うことである。

そしてこの平和論議の中で「9条の呪縛」から解放された「こんな人たち」が有益な意見を出してくれるだろうと筆者は信じている。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

脚注
(1)  朝日新聞デジタル 2012年12月14日
(2)  篠田英郎「ほんとうの憲法」 37頁 ちくま新書 2017年
(3)  同 上             69頁

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