呉座氏の学者としてのプライドは素晴らしいが

呉座勇一先生が私の『「週刊ポスト」で井沢元彦氏が呉座氏に公開質問状』を書いたのを受けて『八幡氏への反論:歴史学者のトンデモ本への向き合い方』という論考をアゴラに書いておられる。

日文研サイト、BS朝日サイトより:編集部

これを見て、呉座先生が自分の「歴史学者」という仕事にもっておられる「誇り」に感銘し、なんとも幸福な方だと思う。まことにうらやましい。それは皮肉でもなんでもない。日本人がここのところ自分の職業へのプライドを失って自虐的になることが多いなかで、とても清々しいことだ。学者には象牙の塔などといわれても屈しない頑固なところも必要な資質だ。

ただ、私は歴史学者をそれほどひどく罵倒しているわけでもないので、百田・井沢・久野氏と十把一絡げに批判されても困ってしまう。そこのところは、軽く苦言を呈しておきたい。

まもなく刊行される「日本国紀は世紀の名作かトンデモ本か」など、ニュートラルな立場からの考察ではあるが、量的には批判のほうが多いから(賞賛の言葉を延々と書いても仕方ないから批判の方がページ数では多くなるのは必然だ)、そっちの熱烈なファンから猛攻撃を受けるのではないかと身構えているなかで、後ろからか横からか知らないが撃たれるのもつらいところだ。

呉座氏は、著作態度が安直とか、監修という言葉が普通と違うとかいう姿勢論でなく、「百田氏の書いていることのどこが間違いだから信じないようにという指摘をする方に努力を傾注することのほうが生産的なように思える」と私が書いたことについて、「私の”態度”を批判している。一見すると正論に思えるが、失礼ながら八幡氏はトンデモ本に対する理解を根本的に欠いている」とおっしゃっている。

①百田氏や井沢氏の著作は膨大なので、間違いも夥しいからいちいち間違いを指摘していたらきりがないし、

②批判するからにはよほどきちんと調べた上でなければならないから、

③トンデモ本は信用してはいけない

ということを指摘するにとどめるようにしているとのことらしい。

しかし、

①彼らの間違いをすべて扱えなどと誰も思わない。主要な間違いを指摘していただければいいのである。

②別に研究論文が書けるほどしっかり調べていただかなくとも、呉座先生のような専門家が「これは間違っている」とごく簡単な理由を付して書いていただけばと思う(足利義満暗殺説について雑誌のバックナンバーを紹介いただいてとてもありがたく、そのうちに図書館へ行って読みたいと思うが、さわりだけでも紹介いただいたらもっと多くの人が納得すると思う)

③一般論としてダメというだけでは普通は納得しないと思う。いってみれば、薬やワクチンなどの副作用が指摘されたとして、厚労省の新薬認可プロセスはしっかりしているから、副作用があるなんていうべきでないとだけいわれても納得できないのと同じだ。

それから、トンデモ説のかなり多くはそうそうたる学者が唱えたりしたものが多いのではないか。足利義満暗殺説や本能寺の変黒幕説といったまさにトンデモ説などかなり著名な中世史の専門家である今谷明先生が強く示唆したのではないのか。

いずれにせよ、足利義満や坂本龍馬暗殺、本能寺の変などについてでも、ひどい陰謀論があとをたたないことについて歴史学者はもう少しその解消のために努力されてもいいのではないだろうか。

間違った健康法を糺すのは、新薬発明に劣らぬ立派な医学者の仕事だと思うのと同じだ。

呉座先生のもうひとつの論点は、学者を一般論として批判するべきでなく、「誰それのこの説にはこういう問題点がある」「学界の通説ではこうなっているが、このような疑問が残る」と淡々と書くだけにしろということだ。

なんとなれば、「歴史を研究する上で、歴史学界と全面戦争することは百害あって一利なしである」「仮に“専門バカ”だとしても、歴史学者は作家よりも遥かに多くの史料を見ているし、知っている。歴史学者と是々非々で交流して、有益な情報を手に入れるのが賢いやり方である」からだそうだ。

すでに書いたように、百田氏や井沢氏のようには、私が学者を罵詈雑言を並べて馬鹿にしたこともないので、一緒にされる覚えはないのだが、ただ、学者に限らず専門家の常識を批判する場合には、彼らの個別の説を批判するだけでなく、なぜ信用できないかもいわないと説得力がない。

呉座氏は「八幡氏は元官僚とのことだが、官僚時代、政治家や記者と会って”こいつバカだな”と思ったことが一度や二度はあっただろう」「別に歴史学者を尊敬する必要はないし、おべっかを使う必要もない。残念ながら八幡氏にも、歴史学界を攻撃して自分を大きく見せたいという思惑があるように見受けられる。内心こいつら専門バカだなと思うにしても、その気持ちを少しは隠した方が、有意義な歴史研究ができると思う。健闘をお祈りする」と親切なアドバイスをいただいた。

しかし、官僚がたとえば民間人のことを馬鹿めと思っても、「官僚は民間人よりも遥かに多くの情報を持っているし、知っている。官僚と是々非々で交流して、有益な情報を手に入れるのが賢いやり方である。ではなぜ、官僚をバカばかりと罵倒し、官僚から有益な情報を引き出すチャンスを自ら捨てるのか」などと書こうものならたちまち国会で大臣が追及されて謝罪し、本人は間違いなく左遷されるだろうと思うから、こういうこと書いても許される学者の世界はうらやましいものだ。

専門家は官僚であれ学者であれその分野では「強者」なのである。弱者がそれに対抗しようとしたら、ある程度は、強者の横暴を一般論として攻撃せざるをえないし、強者は鷹揚に受け流す度量も必要だ。まして、批判者には情報をやらないというのは、感心した態度ではないし、まして、公言するのはいかがなものか。

個人的な人格攻撃に及ぶような卑怯者は相手にする必要はないし、そういうのは私もSNSでもブロックしているが、そうでなく、それなりに聞く耳を持つ相手なら、辛抱強く説得するようにつとめることの意義は大きい。意見を変えてもらえた経験は貴重な財産になっていくと思う。

それから、学者を批判すると本が売れるようなことはあまりないと思う。戦前ならいざ知らず、21世紀の今日において学者はそれを攻撃すれば受けるほど尊敬される職業であるまい。

最後に、呉座先生の出された「陰謀の日本中世史」(角川新書)は、たいへん楽しく読ませていただいた。大学の一般学生向きの講義をもとにされた中級編だが、さらに初級編を書かれるのも有意義なのではないかと思うと申しておきたい。

学会で注目される論文も大事だが、大衆を啓蒙するのも学者の大事な仕事であろう。