「朝鮮紀行」にバードが描く日清戦争における日本軍の行状

2019年03月31日 06:00

日清戦争(1894年7月-95年4月)は日本と清国との戦争だ。下関条約の第一条に「朝鮮の独立」が謳われたように朝鮮半島を巡る両国の主導権争いだった。東学党の乱(1894年)に手を焼く李朝に支援を求められた清が兵を出し、天津条約*に基づき清から通知を受けた日本も出兵して開戦した。(*1885年の甲申政変後に日清で締結。両軍撤兵、軍事教官派遣禁止、朝鮮派兵時の事前通知などを決めた。)

日本軍歩兵の一斉射撃(日清戦争、Wikipediaより:編集部)

『朝鮮紀行』でバードはこう書いている。

平壌は猛襲を受けた訳ではない。市内では実際の戦闘はなく、敗退した清国軍も占領した日本軍も朝鮮を友邦として扱っていた。この荒廃の全てをもたらしたのは、敵ではなく、朝鮮を独立させ改革しようと戦った人々なのである。「矮人は朝鮮人を殺さない」ことが徐々に知られるようになり、多くの住民は戻ってきていた。

日本軍が入って来て、住民の大部分が逃げ出したのを知ると、兵士は家屋の木造部を引きはがした。往々にして屋根も燃料や灯りに使った。そして床でもした火を消さずに去るので、家屋は消失した。彼らは避難民が置いていった物品を戦闘後三週間で略奪し、モフェット氏宅ですら700ドルに相当するものが盗まれた。氏の使用人が書面で抗議したが、略奪は将校も現場にいて容認されていた。このようにして朝鮮で最も栄えた都の富は消えてしまったのである。

その後の占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物質に対しては全て順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるを得ず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊がのさばることも良く判っていた。

バードは下関条約第一条を知っていて「この荒廃の全てをもたらしたのは、敵ではなく、朝鮮を独立させ改革しようと戦った人々」と書いたのだろう。また訓練隊とは1895年初めに発足した日本軍が訓練した朝鮮の軍隊だ。「日本軍が引き上げれば、彼らがのさばる」としている。

そこで、そもそもバードが描くこの日本軍の行状をどう評価すべきなのだろうか。住民がいない家屋の羽目板を剥がして焚いたり、残していった物を持ち去ったりする行為(略奪とは言わない)のことだ。だからやって良い訳ではないが、虐殺や強姦などはないようだ。それらも果たしてバードやモフェット自身が直接見たものなのか、それとも第三者や使用人からの伝聞なのかもはっきりしない。

筆者はモフェットが誰か調べてみた。おそらくSamuel Austin Moffettではないか。モフェット(1864年-1939年)は米国インディアナ州マディソンで生まれハノーバー大学で学んだプロテスタント宣教師で46年間を朝鮮半島で過ごした。

モフェットの家族は彼についてこう書いている。

クリスチャン学校を含む全ての学校の神社で天皇崇拝の念を表するという政府方針に、彼が深刻な影響を及ぼしていることを知っていた日本の占領者によって強制退去されるまで、彼は46年間韓国で奉仕していた。彼の手紙は韓国における日本との紛争のみならず彼の活動地域でのキリスト教徒の逮捕・殴打・投獄も詳述している。(略)1896年11月に彼は王子が東方の大学に通うため米国に王子を伴うよう韓国王から依頼された。(筆者拙訳)

王子とは最後の李朝王純宗だろう。モフェットが高宗と昵懇だったことが窺える。彼の家族の記述も本人から聞いたに間違いなかろう。が、南京の国際安全地帯のベイツやスマイスの名を出すまでもなく、宣教師としての成果を示さんがため、布教を妨げる者は悪でなければならぬという、当時の中国や韓国のキリスト教宣教師のステロタイプが存在したことも事実だ。

暖をとるための材に民家の羽目板をしばしば使いもしたようで、日中戦争の記録などにも散見される。が、留守宅の「略奪」は逃げる清軍の仕業の可能性も否定できない。なぜなら、進軍時だろうが敗走時だろうが中国兵は予定調和の如く住民や農民に対し略奪や強姦を働き、街を焦土化(清野)した。傍証として『悲劇の朝鮮』(アーソン・グレブスト)から1882年8月の壬午事変の後に清軍がソウルに駐留した際の記述を引用する。

駐留清国軍は漢城各所で略奪、乱暴を働き多くの漢城市民が被害に遭った。清国軍兵が集団で富豪の家を襲い、女性を凌辱し、酒肴の相手をさせ、挙句の果てに金銭財貨を奪うなどの乱暴狼藉が日常の如く行われた。・・中国では、伝統的に軍隊は略奪を一種の戦利行為として許される習慣があったから、将官たちはそうした兵士の乱暴狼藉を見て見ない振りするのが常だった。一方、漢城には三千名の清国兵の他に二百名足らずの日本兵も居たが、彼らは実に秩序正しく振舞っていた。

このスウェーデン人記者の記述も自身の目撃譚か伝聞かは判らない。が、偶々だろうが清兵の所業はモフェット談の日本兵のそれと似ている。そして日本兵は秩序正しかったと書く。同様に1900年の義和団事件(北京の55日)も柴五郎以下の日本陸戦隊と民間日本人の勇敢さや明朗さを世界に知らしめ、日英同盟の契機の一つになった。当時の日本軍に軍紀の乱れはないと思う方が筋は通る。

仮にそうだとすれば筆者はその理由を万国公法と軍人勅諭に求めたい。明治日本は西洋を良く学び万国公法を知悉していた。東郷平八郎が英国船「高陞号」を躊躇なく撃沈した事件は良く知られる。朝鮮近代史家の姜在彦も、1864年に清で漢訳された万国公法が早くも翌年には日本の開成所で訓点を付して翻刻され、しかも増版を続けたと『朝鮮儒教の二千年』に書いている。

一方、藩兵から徴兵制への移行期の精神的支柱とすべく西周や井上毅らが起草に加わったとされる軍人勅諭は、明治天皇が1882年に陸海の軍人に対し下賜し、その兵たる日本軍人が諳んじたとされる。赤旗の記者だった韮澤忠雄は『教育勅語と軍人勅諭』に、彼自身が学徒出陣で入隊した時の経験を下記のように書いている。

毎晩寝る前に軍人勅諭を唱和するのが日課だった。・・長文なので次の五ヵ条だけを唱和した。・・幹部候補生になってからは全文暗唱のほか筆記試験もあった。

一 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし

一 軍人は礼儀を正しくすべし

一 軍人は武勇を尊ぶべし

一 軍人は信義を重んずべし

一 軍人は質素を旨とすべし

同書には「こうしてぼくらは戦争にひきこまれた」との副題が付いている。反軍国主義や反戦の目的で書かれたこの本が、却って日本軍の軍紀の厳格さ証左になっているのはなんとも皮肉だ。

最後は天才小室直樹の『昭和天皇の悲劇』から。

(軍隊が)解き放たれたらどうなるか。贅言は要しない。民衆を餌食にするに決まっている。歴代の中国など、ひとたび軍隊が通過すれば途中の民家はペンペン草も生えないほど荒らされきってしまう。このことは味方の軍隊も敵の軍隊も関係ない。秀吉の朝鮮出兵の時、朝鮮へ援軍にやって来た明軍による朝鮮民衆の略奪が余りにすさまじかったので、朝鮮の都鄙は原野と化した。日清戦争の時にも朝鮮の民衆は、戦争よりも清軍による暴行、略奪を恐れた。・・・軍隊が勝手に動き出したら民衆は蜘蛛の子を散らすように逃げる。これが鉄則なのである。ところがどうだ。二・二六事件に際しては、民衆は逃げるどころか、もの珍しげ、親しげに近寄って来たのであった。・・・東京の民衆は、「陛下の軍隊」が陛下の赤子を襲うなどということは夢にも思わなかった。

いつの時代にもまたどこの国の軍隊にも、法も軍紀も関係ない跳ね上がりがいるものだ。が、国家や軍隊の方針として不法を働かせたり、またそれと知りながら裁かなかったりすることと、万国公法や軍人勅諭に外れぬよう、軍としての規律や風紀を維持しようと努めることとの間には、それこそ雲泥の開きある。日本は後者だったと思いたいし、バードに直接聞いてもみたい。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。

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