完全他人介護にたどり着く前の『生き地獄』

我々夫婦は今でこそ『完全他人介護』を提唱していますが、ここに行き着くまでには大きな葛藤がありました。

我々が初めて他人の介助者を受け入れたのは、ALS発症から1年半くらいの頃です。当時の症状は、終日車椅子に座るようになり、手はほぼ動かず、何をするにも介助が必要でした。

妻はその介助を一手に引き受けていました。毎日職場にも顔を出し、食事やトイレの介助をしていました。加えて、当時娘が小学生になった時で、年少の息子も合わせて育児に追われる時期でもありました。

妻の体も心も限界を超えていました。日に日に壊れていく妻を見ながら、何も出来ないことと着実に進行する症状を目の当たりにして、まさに生き地獄でした。

それでもなお、他人を入れることに2人とも抵抗がありました。

女性介助者を入れるとしたら、トイレや入浴介助の際に、妻以外の女性に陰部を晒すことになります。私と妻にとって耐え難いことでした。夫婦なら当然の感情だと思います。

また私は、深夜に男性介助者を入れるのにも抵抗がありました。万が一おかしな人だった時、家族を守れないからです。

「このままでは子供たちも一緒に犠牲者にしてしまう。でも、、」と私も妻も何百回と自問自答した末、お互いの胸の内を明かし、全てを飲み込み他人を受け入れるという、苦渋の決断を下したのです。完全他人介護への第一歩を踏み出しました。

あれから3年半の時が流れました。人間の適応力は哀しいくらいに優秀で、介助行為であれば、誰に何をされても恥じらいを感じることはなくなりました。

24時間他人が家にいる環境に、妻は相変わらずいろんなことを飲み込んでくれてると思いますが、ようやく『誰も犠牲者にならない普通の生活』が確保されつつあります。有難いことです。

最後に、私は仕事でボランティアを依頼しますが、未婚の介護職ではない女性ボランティアさんには、陰部を晒す介助はさせてません。私から妻へのせめてもの配慮です。

恩田 聖敬


この記事は、株式会社まんまる笑店代表取締役社長、恩田聖敬氏(岐阜フットボールクラブ前社長)のブログ「片道切符社長のその後の目的地は? 」2019年3月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。