イザベラ・バード・ビショップ(写真、1831-1904)は19世紀後半に世界を旅した英国の女流旅行作家で、1856年の北米を皮切りに日本(1878年)、中国、朝鮮、ペルシャ、チベット、ハワイなどを訪れていくつもの素晴らしい紀行文を上梓した。
「朝鮮紀行」(講談社現代教養文庫)は、東学党の乱や日清戦争の起きる直前の94年3月からその半年後に大韓帝国が成立する1897年3月という、まさに絶妙のタイミングに4度訪ねた朝鮮について書かれている。時代背景そのものがまことに興味深い上、時岡敬子氏の翻訳も実に読み易い。このコンビには「日本紀行・上下」(講談社現代教養文庫)もある。
正しい歴史認識と良くいわれる。が、歴史は過去に生きた先人の身に起きたことで後人にはその実体験がない。また過去の些細な事件一つとっても、それに関わった被害者と加害者にはそれぞれが正しいと考える主張があったはずだ。従い、歴史は現在の物差しを当てて正しいか正しくないか判断するのでなく、事実か事実でないかによってのみ認識されるべきと思う。
よって後人には利害や思惑が入る余地のない客観的資料が要る。そしていくつかの客観的資料の相違や脱漏は、より大きく根源的な歴史の流れ、例えば民族の特質や宗教、伝統や文化、国の成立ちや主権の変遷、地政や国際関係などで裏打ちし埋める。その意味で、被害者でも加害者でもない私人バードのこの紀行文が一級の客観的資料であることに異論はないだろう。
念のため整理しておくと、バードの記述の大半は客観的なデータに基づくかあるいはバード自身が体験した事実、すなわち一次資料だ。が、中には「朝鮮人は日本人が大嫌い」などという記述もある。これらは彼女の感想や伝聞だ。
バードは朝鮮人の姿をどう描いたのか
朝鮮の街並みや人々の暮らし振り、謁見した高宗や閔妃の描写などはバード自身の体験だ。が、第三者に取材した記述は、取材したこと自体は事実としても、その第三者の証言には第三者の感想や伝聞が含まれる。証言に限らず回顧録や日記なども、時が経てば錯誤が生じるし書き手が意図的に隠したり真実を語らなかったりする場合もある。よって迂闊に鵜呑みには出来ない。
とはいえ「朝鮮紀行」全編の感想を3,000字の中に収めなんてとてもじゃないが無理。それにしては前記の一文は少々大袈裟過ぎたが…。ということで本稿が竜頭蛇尾になることを先ずはお断りした上で、これから書くことは「朝鮮紀行」でバードが描写する朝鮮人の容貌や体格の話だ。
日本や清で外国人を悩ませる、現地の人々を識別する難しさは朝鮮には存在しない。目尻が上がったモンゴロイドの目とややブロンズ色を帯びた肌は確かにここでも見られるが、しかし肌の色は浅黒いオリーブ色から極めて淡いブルネットまでと様々である。頬骨は高く、額は帽子その他で隠れていないのを目にした限りでは、広くて知的な額がとても多い。耳は小ぶりで形が良い。一般に表情はにこやかで、当惑が若干混じる。顔立ちから察せられるのは、最良の場合、力或は意志力よりも明敏さである。朝鮮人は確かに顔立ちの美しい人種である。
朝鮮人は私の目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似ておらず、そのどちらよりもずっと見映えが良くて、体格は日本人よりはるかに立派である。平均身長は5フィート4インチ半であるものの、ゆったりした白服がそれをより高く見せ、山の高い帽子をいつも忘れずかぶっているので更に高く見える。
朝鮮人の外見へのバードの賞賛ぶりは尋常でない。きっと顔立ちなどが彼女の好みにマッチしたに違いない。平均身長の5フィート4インチ半は165cmほどだ。が、「日本人よりはるかに立派」と書いてあるのは意外だった。日本を訪ねてから20年と経っていないから、事実そう感じたのだろう。
現代の東アジア成人男性の平均身長は、日本171.6cm(170.7cm)、韓国171.2cm(173.3cm)、中国166.5cm(172.1cm)、北朝鮮165.4cm(165.6cm)だ。取りにくいデータだから正確性は期待できない。が、ネット検索する限りどのデータも似たり寄ったりで、厚労省の統計不正ではないが誤差の範囲だ(延2千万人で560億円なら@2800円)。
注)数値はこちらのサイトからOECDの資料参照 ()内は別資料。
日韓のサッカー戦などを見るにつけ韓国人に対する筆者の肌感覚は、確かに立派な体格だなぁだし、野球やプロレスでは昔も今も名選手には韓国系の方が多い。データ上も()の方のデータなら今でも韓国が一番大きいから百年前もきっとそうだったのだろうと得心する。
バードが出会ったのは特権階級に限られた?
友人に汗牛充棟のディレッタント(好事家)がいるのでこの話をすると、バードが会ったのはきっと両班ばかりだったのではないかと。なるほどと腑に落ちる(白服は庶民が着るらしいけど…)。往時の朝鮮の支配層で庶民を搾取する存在だった両班なら、働かずに美味しいものを食べてさぞかし快適な暮らしをしていたのだろうから、確かに朝鮮族の平均身長を押し上げたかも知れない。
その両班について呉善化は「韓国併合への道完全版」(文春新書)でこう書いている。
両班たちの不毛の争いが李朝末期に一層激しくなった第一の理由は、両班人口の増大にある。官職を得られなくても両班身分は世襲されたから、金で両班の地位を買ったり、偽の資格証を売ったりということが十数代も繰り返されてきた結果、怪しげな自称両班が膨大に増加した。京城帝国大学教授四方博氏の「李朝人口に関する身分階級的観察」によると、総人口に占める両班の比率は1690年に7.4%だったが、1858年にはなんと48.6%にまで増加した。人口の約半分が支配階級の身分などという国がどこにあっただろうか。
人口のほぼ半分が両班だったとは腰を抜かす。しかしそれでも先の終戦に伴う南北分断まで同じだったはずの韓国と北朝鮮の平均身長になぜ6~8cm近い差が生じたのかとの疑問が残る。体位の向上について一般に良く言われるのは食糧事情と生活習慣だ。が、それでも戦後の約70年間でそれほどの差がつくものだろうか。
1945年の夏に何らかの理由で両班の多くが南に残り、スタート時点ですでに差がついていたのかも知れぬ。が、両班と一般人との別々の身長データはないし、南北どちらに多く両班が別れたかのデータもない。やはりここ数十年間の栄養事情が大きいと思うことにする。
最後にフレデリック・A・マッケンジーが「朝鮮の悲劇」(東洋文庫)で「朝貢で北京を訪れた朝鮮人を見かけた」として以下のように評しているので掲げておく。
彼らの上衣は中国スタイルとは異なり、右側の方が縦に二つに分かれるようになっていた。彼らの衣服は数世紀前の韃靼人侵入以前の北京の習俗に似ており、また彼らは、日本人と同じように部屋に入る時に靴を脱ぐのであった。彼らは一風変わった冠、それもたいていは寸法の大きい、馬の毛か竹で編んだものを被り、頭髪はてっぺんでまげを結っていた。彼らの肌は浅黒くて、鼻は低く目は黒いが、そのモンゴル系的な容貌のうちにも、何かコーカサス人を思わせるような、一風変わったものを湛えていた。
バードの記述と一脈通じる。なお、マッケンジーはバードに10年ほど遅れて1900年代初めに朝鮮を訪れた、日本に義憤を感じていたロンドンデイリーメールの記者だ。が、朝鮮人の外貌描写に誇張はないだろう。北京に来ていたことや冠の描写を見るとこれもやはり両班についての描写と思われる。
以上、イザベラ・バードが著書に描いた朝鮮族の外見に絡めて、呉善化とマッケンジーの著書を引きつつ南北の体位差や両班について書き、合わせて筆者が歴史を勉強する上で心掛けていることを述べた。なお、大そうな前文を書いてしまった手前、この後も「朝鮮紀行」を軸に往時の朝鮮を勉強してみたい。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。