「処理水放出ダメ。ゼッタイ。」日本を覆うメディアのイドラ

田村 和広

福島原発の処理水を巡り、日本の伝統的な思考方法の課題が顕在化している。合理的な対応が全くとれないのだ。一体なぜなのだろう。数学や科学の知識に関して、確かに日本の教育水準は国際的には低くはない。一定程度の科学的合理性に基づいた社会を形成している。

しかしそこは本音と建て前の文化である。表層を司る社会のルールとは別に、日本人の根底に流れる精神文化は全く異質である。無宗教と言いながら家屋の新築時には「地鎮祭」で祝詞をあげ、お盆には里帰りで迎え火を焚いたりする。我が国日本は不思議の国でもある。この性質について検証したい。

日本は「精神主義」または「空気主義」

「心頭滅却すれば火もまた涼し」「断じて行えば鬼神もこれを避く」「石に立つ矢」など、日本古来の表現には、「精神の強さ次第で困難も打開できる」という精神力のポテンシャルを恃む思考様式がある。「涼しい」は自分の感じ方なのでそういうこともあるだろう。

鬼神は「めっぽう強い敵」程の意味であろうが生物としての相手との相対的関係性なのでこれもあり得る。しかし、「石に立つ矢」は、完全に物理法則が支配する物質的現象であり、石と矢じりの質量と硬度、弓矢の運動エネルギーなどで能否は決定される。

多くの日本人は真剣に何かを考えるとき、この精神次第で可変な対人(生物)関係と精神の作用が全く効力を持たない物理現象を混同してしまうのである。このシンプルではなくマルチプルな思考軸が上手く働けば驚異的な結果が得られ、足かせとなれば残念な帰結をもたらす。

日本は確かに資本主義で民主主義の国だが、心の底には「精神主義」または「空気主義」という思考の基礎が依然として存在している。

処理水放出ダメ・ゼッタイ。

足かせとなっているのが今の原発事故処理水放出問題である。科学的であり経済合理性に適う現実解は自明なのだが、福島近海の漁業には風評被害が確かに予見されるために解決策が座礁している。「『科学的には安全だからと言って放出しろ』などとこころないことを言うなんて、信じられない」、「風評被害があるから絶対駄目だ」と、精神面での納得感を理由に、問題解決を阻む空気が存在する。そこでは科学的な考察や経済的な見積もりは軽々と捨てられてしまう。

感情は論理より強し

社会は人間が構成しているので、感情が圧倒的に力強い。一方で自然災害や事故処理は純粋な物理科学が支配する現象であり、声や気持ちは無力である。このはざまに立たされているのが現在の東京電力で事故処理に当たっている人々である。どれほど苦しい思いをしているのだろうか。

人間社会において、人を動かす最強の動機は「感情」である。「論理」は「感情」に比べれば圧倒的に弱い。「論理」とは、弱者が強者に抵抗する際の貧弱な武器に過ぎない。特に「被害者感情」は最強の「負のエネルギー」である。例えば「理不尽な事故が再発しないよう世の中への警鐘とするために損害賠償を求める」訴訟などは無敵である。(筆者はその是非は問うていない)

まさか「ペンは剣よりも強し」とは、「感情をペン(:言論)で煽れば剣(:武力ではなくて物理法則)よりも強い」ということだったのだろうか。

この点では日本も近隣国を嗤えない。

メディアのイドラとは

「イドラ」とは、簡単に言えば「思い込み・先入観」である。イギリスの哲学者F・ベーコンが人間を惑わす思い込みとして次の「4つのイドラ」を提唱した。

  1. 「種族のイドラ」…人間という種族に基づく思い込み
  2. 「洞窟のイドラ」…個人の思い込み
  3. 「市場のイドラ」…市場で聞いた話によって作られる思い込み
  4. 「劇場のイドラ」…権威ある学者の説をすぐ信じてしまう思い込み

筆者はこれらのハイブリッドとしての「メディアのイドラ」を日本に見る。新聞やテレビという「偏向」フィルターを通して、市場(世間)の話や劇場(阿世学者や専門家等)の権威ある話が日本社会に流し込まれる。すると、極めて偏った「思い込み・先入観」が社会に醸成されてしまう。

なお、メディアのイドラには、マスメディアの誘導によって作られる読者・視聴者側の「思い込み」に加え、傲慢さと不勉強に起因する「マスメディア自身の思い込み」も含まれる。マスメディアを情報の「水源地」として見なすならば、むしろこちらがより深刻であり、マスメディアこそ真っ先に「除染」が必要だと言えるだろう。

東電旧経営陣「無罪でも消えない責任」

メディアのイドラは日々発生している。たとえば朝日新聞は9月20日の朝刊で、東電旧経営陣3名の強制起訴に関する東京地裁の無罪判決(19日)に対して、6つの記事を掲載し「情緒的な」言葉を並べ、読者の不満感情を煽った。

無罪判決への原告の抗議を伝えたNHKニュース

NHKをはじめとする地上波テレビも市民の声として「無罪なんてありえない」「罰してほしい」と言った非難論調の代言を並べ日本中が不満を持っているかのように演出した。

一方、弁護士ら法律と判例をよく知っている人たちは「無罪は予想通り」「はじめからわかっていた」と判決を妥当なものとみている。そちらの声は殆どマスメディアには取り上げられない。あるいは良く理解している識者らも自己検閲的にその正論はしまっているかのようである。こうして偏った世論が形成されて行く。

社会を動かすメディアのイドラ

例えば、東京都知事という強大な権力者もメディアのイドラで簡単に首が挿げ替えられる。猪瀬元知事はバッグにお金を入れる仕草でコミカルに描かれ、代わってメディアが担いだ舛添前知事は家族旅行を経費で落とすほどの吝嗇家だったので任期途中で行き過ぎた個人批判を展開された。その直後メディアに愛されたのは小池都知事だったが、「安全だが安心できない」という意味不明な名言で都民に巨額の不利益をもたらした。マスメディアは何も責任は負わないが、本当に罪なのはメディアである。

例示はしないが、日本の国政もメディアのイドラで漂流させられている。

処理水放出を阻む問題の本質

今回の原発事故処理水の放出問題は、現実のリスクに対する科学的な問題ではない。詳述しないが科学的には問題はない。今回の問題は、メディアの偏向報道によって形成された「事故由来の余計な放射性物質は一粒だって海に放出してはならない」という正義の感情、または被害者意識や思い込みに過ぎない不安に、どう対応すべきかの問題である。

言い換えると、日本を覆う「メディアのイドラ」と、それに簡単に偏見を持たされてしまう日本国民の「メディアリテラシー」と「科学知識」の低さが問題の本質である。

二軸の座標平面で思考したい

善悪という二項対立の思考方法は、価値基準が一軸である。数学のxy座標平面のように横軸と縦軸の二軸で考えると明瞭になる事象は多い。

処理水の問題であれば、横軸に科学的な合理性を設定し、縦軸に感情的な許容度を設定すれば、処理水の希釈放出は「科学的には正しいが感情的には拒否したい人がいる」という現実解である。この拒否したい人に実際の被害に応じた丁寧な賠償と対応を粛々と行うだけの話である。

頭の中で二軸が設定できず「よくわからないものは嫌。嫌なものは嫌。ダメ。ゼッタイ」として拒絶してしまう人を啓蒙し、マスメディアの扇動から切り離すことが、21世紀日本の課題だろう。

田村 和広 算数数学の個別指導塾「アルファ算数教室」主宰
1968年生まれ。1992年東京大学卒。証券会社勤務の後、上場企業広報部長、CFOを経て独立。