時代に遅れる司法が招く児童虐待死

社会常識を反映する判断を

船戸結愛(ゆあ)ちゃんの虐待死事件で、東京地裁は養父に懲役13年の判決(10/15)を言い渡しました。判決は「過去の同種の事件の中で最も重い事件だ」と位置付けながらも、結果は甘すぎる。「悲惨、残酷な児童虐待なのに、刑はなぜこんなに軽いのだろう」と、疑問を持った人は私ばかりでないでしょう。

ANNニュースより:編集部

大きな理由は、司法(法律家)が過去の判例に縛られ、前例踏襲主義から転換できず、社会の要請に対応できていないことです。親による虐待が急増し、死に追いやられる子供の数が増えています。少子化が進み、一人一人の子供をますます大切に育てなければならない。そんな時代の要請が反映されないのです。

相次ぐ台風と豪雨の報道にメディアが追われたせいか、地裁判決のニュースは一過性でした。それでもあっさりした記事の中にも、見落とせない箇所がありました。

過去の判例にこだわり過ぎ

検察が「今回の事件は比類なく悪質だ」と主張したところまでは、いいでしょう。問題は「保護責任者遺棄致死罪(児童虐待防止法)を問われた被告は、過去、懲役4〜13年の判決になっている」の箇所です。検察が考える2、30年前の「過去」と比べ、虐待事件、虐待死は格段に増え、社会問題としての重みは増しています。過去の判例にこだわっている時ではない。

判決で裁判官が述べた論理も同じです。「食事制限は不当で苛烈だ。暴力も常習的で執拗だった。過去の事案の中でも最も重い事件だ」まではいいでしょう。問題は「非道さが社会の注目を集めても、過去の量刑傾向を超える根拠は見出せない」という部分です。ここでも「過去」に引きずられている。

さらに失望したのは、裁判員らが記者会見で「自分も親なので許せないとの思いはあった」と、しながらも「過去の事例を参考にしながら評議を進めた」と、述べたことです。恐らく、判事や検事から、過去の事例を説明され、「それに沿って判決を下すのも仕方がない」と、なったのでしょう。

裁判員裁判も機能せず

法曹界に長く身を置いた知人の専門家がこう指摘します。「事件の悲惨さ、深刻な社会問題化のことを考え、かつ他の殺人事件と比べてみると、懲役13年は甘すぎる。法律家の判断が社会より遅れている」「社会常識を反映するはずの裁判員裁判なのに、今回、それも機能していない」と。

さらに「法律家は類似の事件をいつも扱っていると、過去の判例が当たりまえのようになってくる」。ではどうすればいいのか。「刑法を改正し、児童虐待殺人罪といった新条項を制定する。あるいは保護責任者遺棄致死罪の法定量刑を引き上げる」と、提案しています。法律改正が必要な時です。

また、「問題になっているあおり運転防止でも、ドイツでは運転免許の生涯はく奪という厳罰を科すことしている。社会的要請、変化への対応に、日本の司法は遅れている」と、指摘します。

児童に対する懲戒、しつけの要素があり、始めから「意図的、計画的な殺人であったと言えない」という判断が司法はあるのでしょうか。始めはそうであっても、「極端な食事制限、殴る・蹴るの継続的な暴行を続ければ、児童が死ぬ。途中からそれを認識すれば、そこからはもう殺人」なのです。欧米のように、「親の殺意」を厳しく認定し、殺人罪を適用するケースがあっていいと思います。

法改正には時間がかかるとすれば、杓子定規のような駆け引き止めるべきです。「法定量刑の上限を何割引きかした所で検察は求刑(今回は20年に対し18年)する」「弁護側はその半分を主張する」「裁判官は求刑の7割前後を判決の落とし所とする(結局、13年)」。これもひどい前例踏襲です。


編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2019年10月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。