野党に期待すること

初めに申し上げますが、私は逆立ちしても野党に同調することはありません。しかし、政治というのは野党がないと困るのです。日本人が全員同じ考えではありません。老若男女どころか様々な立ち位置の違い、例えば経営者と被雇用者、高収入者と低所得者、独り者と家族持ち、都会に住む者と田舎に住む者、サラリーマンと自営業、健康な人とそうではない人…といった具合に全ての人が置かれている立場は違うのです。

そのような切り口を踏まえたうえでそれぞれの考えを聞き、どう政治に反映していくかは重要な視点であり、野党の役割とはその与党が推進するであろう政策に対して修正を行い、マイナーな方々の権益を守ることも必要であります。

合流を協議する立民、国民両党首、幹事長(立民サイトより編集部引用)

合流を協議する立民、国民両党首、幹事長(立民サイトより編集部引用)

昨年末に立憲民主党の枝野幸男代表が旗振りをした野党合流話は国民民主党との距離感が埋められずその作戦は失敗しました。この失敗について個人的に感じることは二つ。一つは枝野氏は何をしたかったのか、二つ目は野党というヤジを飛ばすことが仕事になりつつある政党にどこまで国民は信頼をおけるのか、であります。

野党が合流するという着想がそもそもイケていないように感じます。二大政党をイメージしているのだろうと思いますが、今、時代は個性化の深掘りであります。アメリカの二大政党が実体的に機能しなくなりつつあるのは国民をAかBのどちらかの枠組みにはめ込もうとする単純な時代ではないということです。

かつて少品種大量生産でモノを安く届けることで社会は潤いました。しかし、90年代から少量多品種の時代に変わります。これはモノの生産の現場の話なのですが、これを消費するのは消費者である点に気がついてほしいのです。つまり、戦後から高度成長期の頃は経営側と労働者側が激突し、デモやストライキを経験し、時として強すぎる組合が会社組織そのものを壊すほどの二大勢力の激突が構図でした。その好例が日産と日本航空です。

しかし、90年代から会社は変わり、人々も個性を見出そうと変化したのです。人それぞれ歩む道は違うのだということです。それに拍車をかけたのが派遣労働やシェアの時代でそれが当たり前の選択肢となった意識の変化は大きいと思います。社会は細分化され、様々な人が様々な境遇の中で生きているわけでその声は千差万別なのであります。ならば、野党の数は本来であればもっとあってもおかしくないはずで統合というのは私から見れば真逆の思想なのであります。

私は野党に政治をしているまじめさを見せてもらいたいと思うのです。与党の言質を取るようなくだらないことは子供だましであります。そんなことはスルーしてよいのです。安倍政権を追い込むことではなく、野党にも野武士がいるな、と思わせて支持層、ファン層をつかむことではないでしょうか?

どうしても安倍政権が嫌なら自民党の内部を崩壊させるぐらいの大作戦を展開したらよいでしょう。それの方が「お主、なかなかやるな」といわれます。共産党や社民党といった政党のスタンスも古いと思います。(公明党もそうです。)誰のための政党なのか、誰に支持されたいのか、的が絞れておらず、組織票に頼る政党はいずれ存在意義を失います。

世の中が激変している中で政党が変わらないわけはないのです。なのに野党が自分の看板にしがみついてしまっているところに国民のしらけ切った目線があることに気がつくべきでしょう。

日本では諸外国のように与党がよく変わる政権交代は起きにくくなっています。理由はほぼ単一民族で格差は世界のレベルからすれば極めて小さいからで、政治家に縋りつくような社会ではないからであります。もう一点、国民レベルでは政治は遠い世界の出来事でしかないのです。政治家と直接しゃべったことがある人がどれだけいるでしょうか?

政治は永田町で決まるのではなく、もっと街中を見渡してもらいたいのです。そうすれば枝野氏も野党合流なんて考えなかったのではないかと思いますが。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年1月29日の記事より転載させていただきました。