「責任ある決断をしない」国、日本 〜 K-1強行開催にみる権力構造の本質

2020年03月23日 16:00

米ニューヨーク州クオモ知事(公式flickrより編集部引用)

I accept full responsibility. If someone is unhappy, if somebody wants to blame someone, or complain about someone, blame me. There is no one else who is responsible for this decision.

「責任は全て私にある。誰かを責めたければ私を責めて欲しい。」

米国ニューヨーク州のクオモ知事の言葉である(CNNのサイトより)。クオモ知事は20日、民間企業の全従業員の出勤を禁止、在宅勤務義務付けを発表した。住民の外出制限は要請に止まったとのことであるが、状況次第ではフランスのような大胆な決断に至るかもしれない。

国や企業の幹部には責任回避することばかり考える人が少なくない。(不作為も含め)何らかの決断をする人は失敗したときに責任をとる。だから責任を負いたくない人は決断しないという行動をとる。しかし何もしなければ、事態の悪化の責任をとらされる。だから、何らかの行動をするときは、判断の内容を不明確にするか、二番手以降で判断するか、あるいは判断の理由を他人の判断にリンクさせようとする。いずれも「主体性」をぼかす振る舞いである。

だから「抽象的要請」という「言及」に止める。米国や欧州という前例を引き合いに出す。どこそこの要請といいながら「やむを得ない」形を作る。要請する側は「要請した」したのだから責任はないといい、要請される側は「要請された」のだから責任はないという。結果がよくない場合には、要請する側は「具体的な判断は要請された側がすること」なので責任をとろうとしない。要請された側は「判断の根拠は要請した側にある」ので責任をとろうとしない。それでいて強権的である。人事や金銭面で圧力をかけてくる。やり方は露骨だが、堂々とはやらない。

一般には力関係で弱いほうが責任をとらされるが、何重にもわたりしばしば循環する、「多くの人を巻き込む」意思決定主体の連鎖の中で世の中ができてしまっている。責任の所在を曖昧にするのは、日本の「十八番(おはこ)」である。誰も責任をとらないが、そこに何らかの権力構造が存在する。

オリンピック開催の是非をめぐって、なかなか関係者が決断に至らない(外部にそれを出さない)のは、「結論」に触れた人間(外部にそれを言い出した責任者クラスの人間)が責任を負わされるという「恐れ」をどこかで感じているからか。それは、ステークホルダーの数があまりにも多く、ステークの規模があまりにも大きいだけに、関係者にとっては「恐怖」といえよう。

しかし「予定通り開催」も一つの決断である。タイムリミットが近づいている。アメリカあたりの要請にしたいのかもしれないが、どうやらトランプ大統領は「それは日本が決めることだ」といっているようである。WHO(世界保健機関)も「判断する立場にない」と述べていたと記憶している。オリンピック開催はみんなで決めたことだから(変更なしで)開催と言い続ける分には(その場限りでは)責任回避できる。そういう思考回路なのかもしれない(なお22日のロイター記事では、関係筋の話として、五輪組織委が通常開催の代替策を検討し始めたと報じられている)。

22日、国や埼玉県が自粛を呼びかけた中で格闘技イベント「K-1」が「さいたまスーパーアリーナ」で開催されたが、この点について橋下徹氏はTwitterで次の通り述べた。

平常時では法に基づかない要請は強権的になる。一方、危機のとき(失敗のとき)には、法に基づかない要請は責任回避になる。これが民主主義の届かない日本型権力構造の本質ではないか。しかし、「法に基づく命令」を「権力の暴走」と「知識人」がいうのだから、責任の所在が不明確な強権政治がこの国では生き残るはずである。

「誰かを責めたければ私を責めて欲しい」といえるリーダーの存在に令和の日本がかかっている。

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楠 茂樹
上智大学法学部国際関係法学科教授

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