対コロナ戦略「日本モデル」は長続きするか

篠田 英朗

『現代ビジネス』さんに、「『日本モデル』は成功するのか」という拙稿を掲載していたいだいた。 その趣旨は、「密閉・密集・密接の回避」を強調する戦略を意識化することと、最前線で努力する人々を支援することの重要性だった。医療関係者、保健所職員、学校教員、そして蔓延を防ぐ努力をしている国民が、最前線の「英雄」であり、日本の戦略の可否は、彼らにかかっている、ということを言いたかった。

Keijiro Takahashi/flickr:編集部

ちなみに私はその前には、「私が政治家なら、即座に巨額の研究資金を(「感染症の理論疫学」を専門にする北海道大学の)西浦教授に預けるために奔走する」と書いたこともある(参照拙稿:「密閉・密集・密接」の回避は、「日本モデル」の成功を導くか)。

その後、現実では、日本の政治家たちが、和牛商品券や旅行特待券を国民に配るために奔走しているという報道を見た。

奇抜な発想すぎる。日本はユートピアなのか。

もっとも吉村洋文・大阪府知事は、「和牛券の前に、各自治体の病床確保策に財政支援してくれ」とツィートした。私の発想に近い。和牛の話は、単に現場感覚の有無というだけの話なのではないか。

「日本モデル」については、松川るい参議院議員が、「検査数の少なさが、日本のクラスター対策と重症者への適切な医療提供が死亡者数抑制につながっている日本の対コロナ戦略をもっと世界に発信すべき」と国会で議論している。意識化のためには、こうした議論が望ましい。

ただ、それなら日本政府は、本当にクラスター対策従事者と医療関係者に対して戦略的な支援を重点的に行っているのか?という質問が出てくるだろう。行っていないのであれば、言っているだけ、になってしまう。説得力がない。やがてクラスター対策班が疲弊し、重症死亡者が急増すれば、説明が前提にしている現実も崩壊する。

「日本モデル」の最大の論点は、検査数の少なさだ。これについて多い方がいい、少ない方がいい、といった議論がなされすぎて、本質が見えなくなっていると感じる。問題は、医療崩壊を起こさないような検査数の適正管理だ。医療側と検査側の能力向上との相対的な関係で、妥当な検査数は求められてくるはずだ。

さらに誤解を払しょくするために日本が強調するべきなのは、検査をクラスター対策の効率的運用のために戦略的に使っている、というものだ。検査体制に余力がないと、クラスター対策班が、感染ルートの識別のために集中的に検査を行いたいときに機動力を発揮できない。

「クラスター対策のための検査能力の確保が戦略的に必要だ」、という説明の方が、「検査数は少なくてもいい」という説明よりも、少なくとも海外向けには、理解されやすいと思う。

ところが、検査数の抑制的管理が、クラスター対策の戦略の一環として行われている、という説明は、実は日本国内でもまだあまり聞かない。それでは外国人に理解されるはずがない。もっと意識化を図らないと、戦略的運用の進化も果たせないのではないか?

「日本モデル」では、「自粛」に重きが置かれる。逸脱者が現れると、「自粛を、繰り返し強く要請する!!!」といった冗談のような話が、為政者の口から飛び出してくる。「自粛せよ、強く繰り返す要請する!!!」のほうが法的措置による移動の規制より望ましいのは、為政者が自分では何の責任もとりたくないことが理由であるのは、確かであるように思う。

それならせめて「自粛」した人を支援するべきだ。「自粛」なのだから、税金は投入しない、感謝もしないということになっているらしいが、法的規制による「自粛」は責任が発生するので避けたいが、繰り返し強く要請する「自粛」は法的責任が発生しないので使い勝手がいい、という為政者中心主義の目線は、長続きしないように思う。

日本は現場の人の努力によって支えられている。だがそれだけに依存しているのでは、長期戦は戦えない。補給物資が必要だ。和牛商品券は、現場の人を助けない。長期戦を戦うためには、戦略的な発想にもとづいた支援を現場に提供する政治家が必要だ。