遅かった印象はあるが、まだ遅すぎない。オリンピック延期が一斉に関係者の口から出た3月23日、小池百合子東京都知事が、「今後3週間が『オーバーシュート』が発生するかどうかの大変重要な分かれ道」だと語った。そのうえで小池知事は、(1)換気の悪い密閉空間(2)多くの人の密集する場所(3)近距離での会話、の3条件が重なる場所を避けるよう都民に呼び掛けた。そのうえで無発症の若者層が無自覚のうちにウイルスを拡散させる危険を回避するように呼び掛けた。
これは「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が打ち出してきており、3月19日の「状況分析・提言」でいっそう強調した指針にそった内容の呼びかけだ。「密閉・密集・密接」の回避と略され始めた「3条件が重なる場所を避ける」呼びかけは、専門家会議が重視するデータに基づいている。
若者への呼びかけは「クラスター発生」防止戦略と呼ぶべきもので、完全封じ込めではなく、大規模な飛沫感染の発生を防ぐ戦略だ。ウイルスの拡散には、もう一つ接触感染があるはずだが、こちらはクラスター発生にはつながらないという考え方なのだろう。
この飛沫感染クラスターの発生防止に一点集中的な焦点をあてる戦略は、日本独自のものではないか。もちろん諸外国で警戒されていないわけではないが、外出禁止・渡航禁止・商店閉鎖などが相次いで導入されている欧米諸国には、「3条件が重なる場所を避ける」ことに人々に意識を一点集中させるほどの戦略は見られない。
したがって日本の「専門家会議」の提唱は、実は思い切った戦略なのである。
「3条件が重なる場所を避ける」だけなら、経済活動その他の日常生活を全面的にストップさせる必要がない。もちろん大きな影響を受ける業界はあるが、欧米諸国が導入している措置と比べたら、その狙いと性格が全く異なっていると言ってよい。この戦略の前提は、完全封じ込めではなく、クラスター防止だけを目指す、という考え方だが、それはクラスターさえ防止すれば、医療崩壊を回避する範囲内で拡散を抑え込んでコントロールできる、という考え方でもあるのだろう。
ある種の社会実験の様相はぬぐいえない。しかし、この前提を共有するということにも、今や日本社会において広範なコンセンサスがあると考えていいのだろう。
「密閉・密集・密接」の回避戦略は、これまで謎とされてきた満員の通勤電車がなぜクラスター化しないのか、といった素朴な問いにも答える含意を持っている。答えは、駅に停まるごとに換気がなされるだけでなく、乗客は接近しても決して会話をせず無言のままで、万が一咳やくしゃみをしてもマスクで拡散防止するなどのエチケットを守っているから、になる。したがって、この戦略の採用は、日本の満員通勤電車を止めないまま、コロナ対策を行う、という決意表明でもある。
万が一、この戦略が間違っていたら、大変だ。しかし安倍首相がこれに賛同し、地方自治体も同じ考え方にそった対策をとることがはっきりしてきた。日本全体が「専門家会議」の戦略にそった対応をとろうとしている。関係者が、一つの共通戦略にもとづいた協調行動がとれるようになっているのは、良いことだ。
「密閉・密集・密接」の回避戦略は、今や日本のコロナ対策の原則であるだけでなく、国際的な比較の意味で象徴でもある。日本の国運がこの戦略にかかっている、といっても過言ではないだろう。
この戦略を導き出すデータは、北海道大学大学院医学研究院の西浦博教授の研究にもとづいているようだ。西浦教授は、専門家会議の委員であるだけでなく、最初に感染者の拡大が見られた北海道において、助言者として貴重な役割も演じたようである。
西浦教授の専門は、「感染症数理モデルを利用した流行データの分析」であり、日本でも稀有な研究者であるようだ。この西浦教授が北海道庁のすぐ近くに研究室を持っていたのは、日本にとって幸運であった。西浦教授自身の言葉によれば、現在の日本で「医学部に同専門(感染症の理論疫学[数理疫学])を中心的課題として掲げる教室は私たちが知る限り自身らだけ」なのだという。(参照:北海道大学大学院医学研究院 社会医学分野 衛生学教室サイト)
今、日本において、西浦教授ほど重要な人物は他にいないのではないか。私が政治家なら、即座に巨額の研究資金を西浦教授に預けるために奔走する。間違っても来年度の研究費の申請書作りなどのような事柄に、西浦研究室のメンバーを従事させてはいけない。
今や自由主義を標榜する欧米の資本主義国は、かつてない激震の中で沈滞しようとしている。
日本が「日本モデル」で成功するかどうかは、世界史的な意味を持っている。そして、その日本の運命は、この「密閉・密集・密接の回避」と簡明に題された戦略に、かかってきていることが明らかになってきた。