「本卦還りの三つ子」なる語がある。本卦還りは60年で暦が戻る還暦のことで、年寄が三歳児のように無邪気で我儘になることをいう。筆者は今回のコロナ禍で北京が武漢市に発動した強権を目の当たりにし、60年前に毛沢東が推し進めた「大躍進」が4千万人ともいわれる餓死者を出したのを想起した。
思えば「大躍進」から60年遡る1900年には義和団事件(キリスト教などの排外事件)があり、その60年前にはアヘン戦争が起きた。前二つの事件は清の時代のことで、後の二つの共産中国下の出来事にこじつけるのは牽強の誹りを免れないが、中国で60年ごとに大事件が起きていることには違いない。
共産党による60年前の災禍の資料は二冊。一つは『毛沢東大躍進秘録』(楊継縄 文藝春秋2012.3)、他は『毛沢東の大飢饉』(草思社2011.8以下『大飢饉』)。楊継縄はかつて新華社の記者で、天安門事件の後に各地で聞き取り取材を始め、約10年掛けて80万字の大著を書き上げた。
後者の副題は「史上最も悲惨で破壊的な人災1958➤1962」。ロンドン大学教授のF.ディケーターは、執筆当時の今世紀初め香港大学で教えていた。内容の客観性や纏まりでは『大飢饉』が優れる。前者は著者の養父が餓死したこともあり、少々扇情的に種々の情報(档案を含む)を並べた印象を受ける。
その点、『大飢饉』は研究者である著者が各省県市の「档案館」を回って発掘した資料を多用し、全572頁の内の54頁が「原注」だ。「档案には個人記録ファイルと公文書の二つの意味」があり、前者は「あらゆる職場、機構で共産党組織が作成」した「各人の履歴や言動、思想動向」などが記録された「党による個人管理の基礎資料」で、本人すら閲覧できない。
档案館はこれらを含む「各種の資料を収蔵する国公立の公文書資料館」。1999年に改訂された「档案法実施弁法」によれば、通常資料は30年、国防・外交・公安・安全保障などに関わる資料は50年を期限とし、「国家の利益を著しく損なうものを除いて」公開される原則になっている。
とはいえ著者が書いているように、資料が「残っているということは何らかの目的で選択されたことを意味」し、それは「国のプリズムを通して見るしかない」という「国の公文書保管所の特性」だ。が、著者は「有能な歴史研究家なら」、「こうした資料を逆読み」して「背景を見極め」られるとする。
市井の歴史家鳥居民の手になる『大飢饉』の解説も興味深い。2010年7月、天安門事件以来11年振りに北京人民大会堂で開かれた「党史工作会議」で会場内外の人々を驚かせたのは、「次期総書記の呼び声高い習近平副主席」による、二つの例を挙げての「強硬な守旧的主張だった」と鳥居は書く。
一つは香港で出版された、1930年代の長征での「毛沢東の陰謀好き、野心ぶり」を描いた著書(記述はないが『マオ』か?)、他は「毛個人が推し進めた個人崇拝」について大学教授が書いた北京の月刊誌。習近平は「出鱈目を描くな」と言い「毛沢東批判を許さないと警告した」と鳥居は書いている。
ディケーターが「ここ数年の間に静かな革命が起きた」と『大飢饉』で述べていることを、鳥居は「各地の公文書館の管理の自由化が激しく糾弾されたのであろう」とし、習近平や毛を擁護する党幹部は「会議に臨む前に『大飢饉』の内容を承知していたのであろう」と推測する。
本稿は事件には踏み込まないが、要すれば、農民を駆り出した全国規模の水利事業や、人民公社間の成果を競う地方党幹部の水増し報告のため食い扶持まで買い上げられたことなどで農村農民が疲弊し、60年の前後数年で40百万ともいわれる餓死者が出た事件だ。半世紀近く「自然災害」と隠蔽された。
毛沢東は粗野なフルシチョフを「小馬鹿」にし、「ソ連は15年以
毛は続けて、次に世界大戦が起き「最悪のケースで半分死んだとしても半分は生き残る。そして帝国主義は抹殺され、世界は社会主義になるだろう」とし、「失われる人命にはまるで無頓着な様子で、アメリカは『張り子の虎』に過ぎない」と述べ、聞く者を驚愕させたという。
毛が起こした「大躍進」の露見を副主席時代に隠蔽した習近平は、10年後の今日「西風を圧倒」すべく推進する「一帯一路」で途上国を借金漬けで疲弊させ、今回のコロナ禍では初期の隠蔽で億単位の人が移動する春節を、金で縛った人物がトップのWHOと共に拱手、世界中に災禍をばら撒いた。
リーマン・ショックでの60兆円出動で一気に世界第二の経済大国にのし上がった中国は、今や「西風」の雄「張り子の虎」をも「中国製造2025」で「圧倒」しようと試みる。習近平はコロナ禍を無理やり抑え込んだ2月23日、「共産党の指導と中国の特色ある社会主義制度の優位性は明らかだ」と述べた。
だが、毛沢東の「大躍進」が無理にフルシチョフに張り合って起きた事件なら、習近平がトランプに挑んで起きる事件もあり得よう。コロナ禍もその一つか。米国を盟主とする「西風」は、コロナ禍が想像を絶する速さと広さで蔓延するに連れ、それを「東風」と認識し批判を強め始めつつある。
それにも拘らず習近平の共産中国は、「本卦還りの三つ子」宜しく、容易に露見する隠蔽のみならず、まるで騒動などなかったかのように各国支援に乗り出し、挙句の果てにウイルス発祥の他国への転嫁を試みるなど、まさに幼児然たる振る舞いだ。
ソ連の覇権主義への対抗で中国を承認した当時の米国キッシンジャーは、いずれ経済が豊かになった暁の中国が民主化するはずと思い、また香港返還を鄧小平と交渉した英国サッチャーも、香港を通じて民主主義を知った中国が近い将来に香港化すると考えた。
が、未だに時に応じて途上国を装う共産中国は、自国民の人権や途上国の主権もものかは、9千万党員と一握りの支配層の権利固守にしぶとい。19世紀の二つの事件は清朝滅亡を招いたが、今後「西風」が一致協力して躾けるなら、この「本卦還りの三つ子」を真っ当な大人にできるだろうか。