新型コロナは人間の「弱さ」を熟知

英紙ガ―ディアンが書いていたことだが、「新型コロナウイルスはわれわれ社会の弱さを浮き彫りにし、そこに集中攻撃をしかけている。個人の物資・金銭主義、無制限な自由の擁護から家庭の崩壊、夫婦関係の軋轢、国の医療システムの脆弱まで人間社会が抱えている弱さを熟知し、それをことごとく浮き彫りにしてきている」という趣旨の内容の記事が掲載されていた。すなわち、直径100ナノメートル(nm)から最大200 nmの新型コロナは非常にインテリで観察力のあるウイルスといわざるを得ないのだ。

「イタリアの新型コロナ感染者をケアする医者と集中治療室」(イタリアの「ANSA通信」から、3月19日)

フランシスコ教皇が、「悪魔は君より頭がいい」と語ったことがあるが、新型コロナウイルス(covid-19)はひょっとしたら人類より知的で、行動力を有する存在かもしれない。コロナ危機は単なる伝染病の世界的流行(パンデミック)という次元ではなく、人類社会に展開された“聖なる審判”といった性格さえ感じるという声が聞かれたとしても可笑しくないのだ。聖書には終末期にはさまざまな災難、苦難が生じるといった内容が記述されている。新型コロナはその悪魔の手先で人類に苦しみを与えている、といった見方をする宗教家が出てきている。

ちなみに、フランシスコ教皇は、「サタンは具体的な悪行のために暗躍する。漠然とした事象のために存在するのではない。彼は1人の存在だ。人間は悪魔と話すべきではない。彼に負けてしまうからだ。彼はわれわれ以上に知性的な存在だ。彼はあなたを豹変させ、あなたを狂わせるだろう。悪魔にも名前があり、私たちの中に入ってくる。彼はあたかも育ちのいい人間のような振る舞いをする。あなたが“彼が何者であるか”に早く気が付かないと、悪業をするだろう。だから、彼から即離れることだ。サタンは神父も司教たちをも巧みに騙す。もし早く気がつかないと、悪い結果をもたらす」と説明している。

100万人以上の感染者、6万人以上の死者を出す新型コロナ、その前には農地を一瞬に荒野にしたバッタの大襲撃、地球の気候不順などが次々と短期間に人類社会を襲撃し、新約聖書「ヨハネ黙示録」が記述する終末時の様相とダブって見えてくるキリスト者が出てきても不思議ではない。

実際、キリスト教会では既に新型コロナ危機を「神の審判」と主張するグループが出てきている。その代表はトランプ米大統領の最大支持基盤でもある福音派教会(エヴァンジェリカル)関係者だ。また、スイスのカトリック教会の超保守派聖職者マリアン・エレガンティ補助司教は自身のビデオブログの中で、「パンデミックは理由なく生じることはない。人間が神への信仰を失ったからだ」と主張している。

キリスト教会社会で想定外の災害や人災が生じるたびに、「神の審判」、「天罰」と発言する聖職者が一定数は存在する。それに対し、オーストリアのカトリック教会最高指導者シェーンボルン枢機卿は、「天罰ではない。人間が忘れていたことを想起させるためだ」(ウィーンのメトロ新聞4月3日)と答えている。表現は穏やかだが、「コロナ危機に何らかの神の手を感じる」と受け取っていることは間違いない。

フランシスコ教皇は先月27日、誰もいないサンピエトロ広場で新型コロナウイルス感染の終息を祈った。フランシスコ教皇はその祈りの中で、パンデミックに直面する人類に向かって、人生で何を最も優先すべきかことかを理解するように求めた。そして新型コロナの襲撃は、「神の審判」の時ではなく、「私たちの審判」の時であると強調した。

教皇は、「人生のコースを神と隣人に向ける時だ」と静かに語りかけた。そして、「多くの人々は物質的なことに価値を置き、自己の欲望の充足を求めてきた」と指摘し、新約聖書「マルコによる福音書」第4章35節から41節の聖句を引用する。イエスは舟が沈むのではないかと心配する弟子たちに「お前たちは信仰を失ったのか」と諭し、恐れるなと述べている。

フランシスコ教皇もシェーンボルン枢機卿もその意味するところは同じだが、「神の審判」、「天罰だ」といった表現を避けている。キリスト教関係者でない人々からの反発を恐れるからだろうか、テロを繰り返すイスラム教過激派と同一視され、キリスト教根本主義者の烙印を押されることを恐れているからだろうか。それとも、眼前に展開されるコロナ危機が「神の審判」か「人間の責任」か、区別できないからだろうか。

シェーンボルン枢機卿は、「われわれは旧約聖書『出エジプト記』が記述する『エジプトの疫病』のような事態を体験しているから、新型コロナは神の刑罰といった考えが出てくるが、コロナウイルスが神の刑罰とは考えられない。神はコロナ危機を通じて私たちに何かを悟るように促しているのではないか」と答えている。12日の「復活祭」(イースター)を控え、同枢機卿は「神は死を望んでいない。生きることを願っている」という確信があるからだろう。

ミラノ大聖堂内部(Wikipedia:編集部)

欧州のキリスト教会では新型肺炎の感染を阻止するために聖週間(4月5日からの1週間)の集会を中止し、インターネット礼拝で今回の復活祭を迎えるところが多い。教会では教会入口に置いてある聖水はウイルス感染の恐れがあるとして片付けられたところも出ている。それに対し、上記のスイス教会のエレガンティ補助司教は、「聖水が持つ神の奇跡を信頼すべきだ」と反論している。バチカンニュースによると、3月24日現在、67人余りのカトリック聖職者がイタリアで新型コロナによって死亡したという。

キリスト教会歴史学者のトーマス・カウフマン氏は、「伝染病は『神の刑罰』であり、人間は『魂の救済』のために償わなければならないからだ、といった主張は中世時代の考えだ。宗教的ヒステリーは過去、多くの犠牲を払ってきた。14世紀にペストが大流行した時、多くのキリスト信者たちはユダヤ人のせいだと噂を広げ、多くのユダヤ人が犠牲になった。キリスト教歴史の中でも暗い部分だ」と述べている。

最初のガ―ディアン紙の記事内容に戻る。新型コロナは私たちの弱さをよく知っているから、そこを目掛けて攻撃してくる。私たちは多くの自由を享受し、物質的享楽を楽しんできたが、コロナ危機ゆえに、外出禁止、営業停止、ソーシャル・コンタクトの制限、旅行、集会、スポーツ・イベントの中止など感染防止策が実施されてきた。多くの人々の最大関心事は「この非常事態はいつまで続くだろうか」、「新型コロナ危機は終息するだろうか」だ。

「非常事態」が長引けば長引くほど、コロナ危機対策にほころびが出てくるかもしれない。そうなれば、これまで以上の犠牲者が出てくる。コロナウイルスはそれを計算済みだろう。なぜならば、私たちより頭が良く、私たちの弱さを知っているからだ。

しかし、悲観的になる必要はないだろう。「わたしは自身の弱さを誇ろう。弱い時こそわたしは強いからだ」(新約聖書「コリント人への第2の手紙」第12章)という聖パウロの言葉を思い出す。私たちは謙虚になって、同時代の人々と共に連帯と結束を強め、covid-19の攻撃を凌いでいきたい。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年4月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。