幕末一の名君は鍋島直正・最悪の暗君は松平容保

八幡 和郎

したたかな独裁者として藩と国の為に尽くした鍋島直正

新刊「江戸三百藩の通知表」(宝島社)では、「名君・暗君ベスト&ワースト10」を「天下泰平期」と「幕末」に分けてそれぞれ10人選んである。

そのうち幕末の名君ベスト・ワンは、佐賀藩の英主・鍋島直正だ。直正はあまり知られていないが、薩摩の名君といわれた島津斉彬の従兄弟である(母が異母姉妹同士)。

斉彬が年上だが、藩主になったのは1830年(天保元年)で斉彬より21年も早い。鷹揚な大殿様でなく、自分で学び政策を実施していく独裁者であった。藩主になると、産業育成と交易に力を注ぐとともに、有能な家臣なら出自を問わず登用。さらに、西洋の科学技術を導入し、独自に反射炉を建造した。これがのちに、自藩での西洋式大砲や鉄砲の生産に繋がってくる。

島津斉彬とは反対に、井伊直弼と盟友で、桜田門外の変がなければ外交政策にも大きな力をもったと思われるが、大老の死を受けて隠居し、ひたすら自藩の富国強兵や官僚機構の充実に励み、藩校弘道館は全高最高の藩校となった

肥前佐賀藩10代藩主、鍋島直正の湿板写真。1859年撮影。(財)鍋島報效会 徴古館所蔵。(Wikipedia:編集部)

幕末にいたり、双方から誘われたが、どちらにも与せず妖怪だとかずる賢いとかいわれたが、戊辰戦争ではアームストロング砲を投入して参戦し、新政府軍の勝利に貢献した。また、岩倉具視と気が合い、三条実美の下でともに大納言となり政局の主導権をとり、蝦夷開拓総督に就任した。

しかし、惜しくも明治4年に病死した。大隈重信とは波長が合わなかったようだが、幕末に藩内で内紛がなかったので、官僚となる人材が育っており、明治政府のなかで重きを占めた。松平信子や梨本宮伊都子の祖父であり、秩父宮妃殿下や李方子の曾祖父である。

人格高潔そうだが最悪のリーダーだった松平容保

松平容保が最低というと怒る人もいそうだが、頭が良くて真面目かもしれないが、政治家としては最悪である。会津藩は文久の政変後の1862年に京都守護職となるように福井藩主松平春嶽から要請された。

晩年の松平容保(国立国会図書館デジタルコレクション:Wikipedia:編集部)

本来なら彦根藩の仕事だが安政の大獄と桜田門外の変のあとであるから不向きで、それなら福井藩だが春嶽が政事総裁職となったのでダメ。そこで会津にお鉢が回ってきたのだが、遠隔地で京の人情にも通じない会津には無理だった。

もし、引き受けるなら彦根との領地交換とか、畿内の事情に通じた応援の藩をつけるとか条件闘争をしてからにすべきなのに、「藩祖保科正之ならばお受けしただろう」とおだてられて家臣の反対を押し切って引き受けてしまった。藩主としては大馬鹿である。正之なら、したたかな人物だったから過大なくらいの条件を獲得してから引き受けたのに違いない。

家老に「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、君臣肩を抱いて涙したという」がこういう玉砕主義は最悪だ。

話せばわかると思ったらしく、「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出して発令したが、甘く見られただけだったし、逆に、足利三代木像梟首事件では周囲が止めるのも聞かず、強硬策に出たりとぶれまくった。

尊攘派に殺された家臣には破格の加増などしたが、財政負担がますので、ヤクザと同然の新撰組など雇って、令状なしの捜査と処刑などするから、無茶だと怒りを誘い、新撰組の行儀の悪さへの庶民の反感は会津に向かったから、禁門の変で京の町が焼けたときにも長州より会津に市民の批判は集中した。

幕府と天皇にいずれも忠義だったというひとがいるが、どちらを優先するかの哲学があやふやだからとんでもないことになった。

容保の役目は、孝明天皇に開国を承知しさせることだったはずだ。ところが、孝明天皇に籠絡されて、幕府を説得する方に回った。

幕開国と尊皇攘夷で世の中が対立しているときに、佐幕攘夷という孝明天皇の意見は誰も評価しなかったのに、容保が肩を持ったので、幕府は表向きは攘夷だが各大名にはさぼるように期待するという頓珍漢な態度を取ることになった。

朝廷と幕府の命令通り攘夷を実行した長州を征伐するという狂気じみた方針になったから、幕府は各大名からも市民からもそっぽを向かれ、征長戦争は長州の完勝に終わった。(ちなみに長州の攘夷は開国拒否ではない。吉田松陰はアメリカ渡航を企て、高杉晋作は上海へ視察旅行に行き、伊藤博文は英国留学したのだからそんなことありえない。列強のいわれるがままに開国することに反対しただけである)

たしかに、容保は孝明天皇に忠実だったが、天皇が誰も支持しないような意見をもつときには、お諫めするのこそが忠義であろう。そうでなければ、和気清麻呂は忠臣でなく逆臣になる。

そして、慶喜が方針転換し尊攘派との和解を望んだとき、容保は邪魔ものになった。といっても、慶喜も会津がいなくなると代わりがいないので、とりあえず、引き留めたのだが、ここは、隠居でもなんでもして、引き揚げるべきだった。

しかし、慶喜は容保の意に反して大政奉還して、条件闘争に移って、ほどほどのところで妥協もあったのだが、それを画策していた坂本龍馬を会津藩が暗殺させて、その目を潰し、その結果が王政復古のクーデターとなった。

それに対して容保は対抗しようとしたが、慶喜はそれを嫌い大阪に降り、時を待つことにした。しかし、会津兵が性急に上洛したので鳥羽伏見の戦いになり敗戦。もともと気が進まずふて寝していた慶喜は、容保を瞞して連れて江戸に脱出し、江戸に着くと容保を追放した。

そのあと戊辰戦争になるのだが、その原因は、仙台藩と米沢藩が出した、容保蟄居、家老切腹、減封という常識的な三点セットを容保が拒否したからである。なぜしたのかといえば、京都での容保側近だった家臣たちが、もし、上記のような和平案を呑めば藩内で粛清されることが明白だったから反対したのに説得せず、むしろ、少し前の時点だが、神保修理のような正論を主張した者を切腹させた。

そして、敗戦後に容保が会津から東京に護送されるときには、ウィリアム=ウィリスという敵味方の区別なく治療に当たったイギリス人医師の証言に拠れば

「残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた」「(松平容保が)東京へ護送されるとき、いたるところで、人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばの畠で働いている 農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津侯が国を出てゆくところを振り返って見 ようともしないのである。武士階級の者のほかには、私は会津侯にたいしても行動 を共にした家老たちに対しても、憐憫の情をすこしも見出すことができなかった」「一般的な世評としては、会津侯らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したというのである」

と言うことになったのは当然であろう。