宗教攻撃の自由こそ信教の自由の中核という歴史

2020年11月04日 11:30

フランスのマクロン大統領が、「冒瀆する自由」を守ることを宣言したのに対してテロ予告がされたり、マレーシアのマハティール首相が「フランス人を殺す理由がある」とかいうなど、宗教を批判する自由についての論争が世界的に繰り広げられている。

そんななかで、日本では比較的、批判する自由の重要性が低いように見受けられるので、そうした傾向に苦言を呈したい。

他宗教の否定が「世界基準」

宗教やその教祖を批判や風刺することを抑制しろというのは完璧な言論の自由だけでなく信仰の自由の否定である。日本では宗教に勧誘することが、必ずしも他宗教に対する批判と結びつかないこともが多いし、初参りは神社へ、結婚式は教会で、死んだら葬式と墓は仏教などというのが珍しくない。

しかし、世界的には、宗教の布教は無宗教の人に対して行われるのはむしろ例外で、すでになにかの宗教を信じている人を説得して、呪縛から解き放つことが主たる内容であるし、キリスト教などとの戦いこそが近代民主主義と人権擁護の歴史そのものであった。

「そんな宗教を信じていると地獄に落ちるぞ」とか、その人の信じている宗教の教祖や神様がいかに信仰するに値しないかをさまざまな手段で説くことがむしろ普通なのである。だから、それが認められないことは、言論のみならず宗教の自由の否定そのものなのである。

「日本基準」を作った徳川時代の檀家制度

それでは、なぜ、日本では他宗教を誹謗してはいけないことになっているか。徳川幕府が、檀家制度をつくって、宗旨を変えることを原則的に禁じ、宗派間で論争をする宗論も禁止したからである。

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つまり、江戸時代の日本では、キリスト教以外の宗教は、従来の信仰を守り深めることだけが許されていたのである(仏教の各派が藩ごとに禁止されることも多かった。薩摩で浄土真宗が禁止されたのは典型。平安時代から仏教が盛んだった会津でも保科正之以来、仏教を弾圧したので、戊辰戦争では若松市内の有力真宗寺院の僧侶が新政府軍による砲撃の道案内をした)。

そのために、仏教各派は他宗派の信徒に布教をすることができず、結果、それまでなかった年忌などの行事をいっぱいつくりだして庶民から金を取ることばかりに熱心になった。

そして、明治になって信教の自由が実現しても、容易に檀家制度から決別できず、結果、キリスト教なども異常に低い信者数になっている。

いまも檀家制度から決別するとなると、墓や過去帳へのアプローチに支障を来す。私は、そもそも、江戸時代の過去帳など戸籍簿みたいなものなのだから、明治維新のときに国家管理に移行すべきだったと思うし、いまからでもそうあるべきだと思うくらいだ。

そうしたなかで、キリスト教はおとなしく葬式仏教との平和共存を選んでいるようでもあるが、新興宗教などで共存を嫌う国際的にみたら普通の宗教は「カルト宗教」扱いされたりしたり、信者であることを隠さないと不利に扱われたりしているが、むしろそれがおかしいのである。

もちろん、宗教やその教祖様や神様を誹謗したり、焼いたり毀したりするのを、器物損壊や名誉毀損という一般法理で取り締まり罰することは許される。しかし、それが信仰の対象であっても毀す人の所有であったり、歴史上の人物だったりすると罰する理由はないはずなのである。

ちなみに、愛知トリエンアーレ事件は、信教の問題でない。ああしたテーマで展示をすることが「アート」なのか、昭和天皇が物故者であるとはいえまだ歴史上の人物とはいえないとかいうこと、そして、その展示会を愛知県が後援し補助金を出していることが問われているのであって、個人が自分の金で古代の天皇の肖像を焼いたといったケースとは違う。この問題と一緒に論じるべきでない。

イスラム教の特別扱いを認めるのか

次に問題は、イスラム教徒にとって預言者ムハンマドは特別の存在であるとか、イスラム教徒は他宗教に改宗できないのだから、それをほかの宗教や無神論の人も尊重しろといえるかである。

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私はそれは言えないと思う。まして、イスラム教は他宗教のシンボルを冒瀆することに特に熱心だ。イスタンブールのハギア・ソフィアをモスクに変えて、キリスト教のモザイクなど隠しているのである。

そうなると、信教の自由の問題であるとともに、イスラム教だけを特別扱いしろという主張を認めるかどうかということになる。キリスト教については、昔は他の宗教に排他的だったりしたが、そういうことも非常に少なくなっている。

日本の国家神道についても、公的な保護を与えることはなくなっている(ただし、国家行事で宗教行為をすることは信教の自由に反するという普遍的な法理はない。信教の自由はほかの宗教の信仰を排斥しないことに限定されているのであって、政教分離を定めた憲法第20条の規定はむしろ特殊なものだ)。

となると、もし、イスラム教が「教祖を侮辱するな」とか「改宗は認めるな」と主張するのに対して、イスラム教国でも他宗教に対して同じことを最低限は認めていないと公平でないとか言うのは、フランス的な考え方だと言われるのだろうか。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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