日本人は一億総「出羽守」、ならばより良い「出羽守」を目指そう

衛藤 幹子

昔、スウェーデンのジェンダー平等や福祉がいかに進んでいるかをペラペラ、得意げに話していたとき、尊敬する先輩から「出羽守にはくれぐれもならないように」と戒められ、天狗の鼻をへし折られた。

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出羽守とは他国や他集団の優れた点を「〇〇では」とやたら持ち出す人のことだ。確かに、このときの私は彼の国をユートピアのように崇め、何かにつけて「では」を持ち出していた。先輩には、「その国の政策がどんなに素晴らしくても、必ずしも日本には馴染まない。日本に相応しいモデルを研究しなさい」と諭された。

私が昔のことを思い出したのは、今年はコロナをめぐって何かと出羽守が目立ったからだ。台湾では、韓国では、イギリスでは、ドイツでは、とコロナ対策やPCR検査がうまくいっている(ようにみえる)国々が次から次へと持ち上げられ、翻って日本が無策だ、遅れていると批判された。

ロックダウンや外出制限を国民に要請する国家首脳の演説も、出羽守の格好のターゲットになった。つい最近の例でいえば、12月9日のドイツのメルケル首相の演説だ。メルケル首相の鬼気迫る演説は日本でも話題になり、それは緊張感に欠ける菅首相への批判として跳ね返った。ドイツ思想史家の藤崎剛人氏はメルケルの知性を絶賛し、菅さんを「知性の欠如」とこき下ろした(ニューズウィーク日本版)。

残念なことに私には「知性の欠如」と分析できるだけの知性はないが、菅さんの演説が抑揚がなく、心に響かず、だから記憶にも残らない、お世辞にも上手いとは言えない代物だということはわかる。しかし、よくよく考えてみれば、菅さんのような話し方は、長い海外生活や留学など特別な事情で議論やスピーチを鍛える機会のあった人を除いて、多くの日本人によくみられるものではないだろうか。つまり、菅さんは平均的な日本人なのだと思う。長い間人に話すことを生業にしていながら、一向に話術が上達しない私も、実は「菅さん」なのである。

政治リーダーにとって弁論術は極めて重要だ。国民に苦痛を強いるようなときはなおさらだ。だが、仮に菅さんが弁舌滑らか、立板に水を流すような演説をしたとしたら、どうだろう。今度は薄っぺらだ、口先だけだ、果ては信用できないと批判されるのではないだろうか。「沈黙は金、雄弁が銀」の文化はまだまだ根強い。わけても饒舌な男性は嫌われがちだ。

では、出羽守は余計な邪魔者なのか。コラムニストの小田嶋隆氏は、ネット民たちの出羽守叩きを批判し、その効用を強調する(日経ビジネス電子版)。小田嶋氏の見解にはなるほどと頷くものがある。物事をより良いものにするときに、優れたモデルを参考にするのは常識だ。「では」の国を鏡として、自らに欠けたところを見つけ出し、その改善策をその国から学ぶ。出羽守は鏡を提供してくれているのだと思う。しかし、くれぐれも注意が必要だ。

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出羽守が嫌味なのは、彼らの知ったかぶりの態度ではなく、自分は批判の矛先を向ける自国とは関係のない、まるで他人のように振る舞うからだ。「では」の国と一心同体なわけだ。聞かされている方は、批判されているだけでなく、見下されているように感じてしまう。心の狭い私は、高みから見下ろされるのが苦手だ。謙虚で抑制の効いた出羽守の話なら、真摯に耳を傾けたいと思う。

もっと厄介なのが、彼らが「では」の国をユートピアのように崇め、奉る、あるいはそのようにみえることだ。もっとも、これは理解できないこともない。話のノリでつい誇張したり、褒めすぎたりすることがあるからだ。しかし、私のごく限られた経験や見聞からではあるが、ユートピアはどこにもない。

スウェーデンのジェンダー平等は確かに進んでいるけれど、一歩踏み込んで、冷静に眺めてみると、美しい理念の下からしたたかな現実主義が姿を現し、幻想が打ち砕かれる。私はこの現実主義が好きだし、だから日本も学べると考えているのではあるが。相対的かつ批判的な見方のできる出羽守のほうが信頼できそうだ。

明治開国以来、欧米諸国を範として国づくりに邁進してきた私たち日本人には、多かれ少なかれ「出羽守」が内面化されているのかもしれない。一億総出羽守、ということだ。